令和大改修(本堂・仁王門)ご寄進のお願い

 かねてより懸案となっておりました松尾寺の本堂、仁王門の大改修事業の内、まず仁王門の大改修が本年令和二年六月より着手され、来年令和三年の暮れには修理完了。これに続いて令和四年より、いよいよ本堂の大改修事業が進められることとなりました。
 屋根の葺き替えなど大小の様々な修理を重ねて、現在の本堂はおよそ300年、そして仁王門はおよそ250年の風雪に耐えてまいりました。江戸時代の古建築として、何れも京都府の文化財指定を受けておりますが、今回のように本格的な全面解体修理は、再建以来初めての大事業となります。
 長い歴史の中で多くの参詣者を迎え入れてきた松尾寺本堂、仁王門の文化財としての意味をご理解頂き、有縁の皆さまに広く解体修理のご支援をお願い申し上げます。

 

一口(三千円)よりご寄進をお願い申し上げます。
また、大改修期間限定で梵字の御朱印小色紙(一枚千円)もご用意いたしました。
御参拝の折には本堂、受付にてお申し付けください。






仁王門について

明和四年(1767)再建

 本年六月より修理が始まった仁王門は、先年の小修理の際、上棟式に用いられた木槌が小屋裏より発見され、その墨書によって、明和四年(1767)の建立であることが明らかとなりました。


明和以前の仁王門

 さらに時代を遡って、明和以前の仁王門はどのようなものであったのでしょうか。
  松尾寺に伝わる絵画資料をもとに振り返ってみますと、江戸時代以前の松尾寺の様子を伝える絵画としては、寛永年間の火災以前の様子を描いたものとされる「松尾寺伽藍図」(図1)と、さらに時代を遡る「松尾寺参詣曼荼羅」(図2)があります。両資料に共通するのは、二層の楼閣として仁王門が描かれていることです。細部については、屋根が前者では瓦葺、後者では檜皮葺(ひわだぶき)の描写になっている点が異なります。
  これらの絵画資料の描写が、どこまで正確を期したものかは疑問が残りますが、現存の明和の仁王門に先行して、二層楼閣スタイルの仁王門が存在していた可能性は大きいといえるでしょう。


図1

図2

昭和六年(1931)の仁王門屋根の葺き替え

 現仁王門の250年に及ぶ歴史の中では、数回の屋根の葺き替えが必要であったと考えられますが、中でも昭和六年(1931)の御開帳を機に行われた葺き替えは、近年では最も大きな改修工事であったといえます。
  現在の、一見瓦葺と見紛う屋根は、銅板を使って本瓦葺風に仕上げたもので、緑青が銅板表面を覆い、雨ともなればしっとりと一層重厚な時代の風合いを呈しておりました。これが我々にとっては昔から見慣れた仁王門の風景として定着しておりました。
  しかしながら、この改修工事以前に制作された絵葉書や写真資料には、檜皮葺(ひわだぶき)風、ないしは、もう少し厚みのある材を用いた柿葺(こけらぶき)かと思われる影像が残されておりますので、現在の本瓦葺風の銅板屋根は昭和の御開帳以降、僅か90年ほどの間のみに限定される仁王門のイメージであるということになります。
  このような銅板屋根の技法は大正末年ごろに確立したスタイルといわれ、当時としては先進的な技法を導入して仁王門の改修工事にあたろうとする意気込みの表れと言えるかもしれませんが、仁王門に少なからぬ改変を来たしたことは否定できません。
  修理作業は、現在小屋裏の木組みを解体する段階に入りました。この間小屋裏からは、かつて仁王門の屋根を覆っていた栗材を用いた柿(こけら)の一部が発見されるなど、新知見が得られています。


工事の進捗に併せて随時ご紹介させていただく予定です。
詳しくはまた次の機会に。

 

仁王門修理工事の進捗状況

 昨年6月に始まった仁王門の解体工事は順調に進み、昨年11月には仮屋の中に基壇を残すのみとなりました。

 仁王門の各部材は作業場に搬出された後、新材による欠損箇所の修補、補強、場合によっては取り替えなど、それぞれ必要に応じた修理が加えられ、最終的には元の姿に組み上げられてゆくことになります。
 仁王門の解体作業に併行して行われたボーリングによる地盤調査の結果、基壇地下には部分的に軟弱層が存在することが判明し、地盤改良の必要が議論されるところとなりました。
 基礎工事に当たっては、地下遺構の有無を確認するための試掘が行われましたが、果せるかな、掘っ立て柱の痕跡が発見されて工事は一時中断。
 時間的な制約がある中、各方面のご協力をいただいて、本格的な発掘調査が行われました。
 現在、工事区画での発掘調査は既に完了し、調査結果は去る令和3年1月20日に報道関係者に対して記者発表が行われました。(コロナウイルスの非常事態宣言を受けて、一般公開の現地説明会は中止となりました。)

発掘調査結果を簡単にまとめますと、
1. 発掘域の最古層は平安時代初期
 発掘域で確認された最古層には平安時代初期の整地層が認められ、更に参道と考えられる盛土や、溝の痕跡が確認されました。 残念ながら、この時期の出土品の中に、寺院遺構を特徴付ける決定的な遺物は確認できませんでしたが、辺境の青葉山中に、1200年近くを遡って人々の活動の痕跡が残されていること自体、大きな驚きと言わざるをえません。
2.平安時代後期の建物基壇を示す石列と基壇の一部を確認
 今回の発掘調査で得られた最大の成果は、現在の仁王門基壇の南端に、平安時代後期に遡る建物基壇の一部と考えられる遺構が確認されたことです。 これは寺伝に物語られる鳥羽天皇による七堂伽藍の御寄進と、その焼失後の美福門院による再建時期に重なる重要な遺構となる可能性があります。
3.基壇の修築と移動
 この平安後期の基壇石列には、中世に入って更にもう一段の石列を加えるなど、修築を重ねつつ、江戸時代初期まで仁王門の基壇として機能していたものと考えられます。 その後、基壇の位置は4メートルほど山側へ移動して、旧仁王門が建立されますが、あまり時代を経ることのないまま、更に奥へと移動を繰り返し、明和4年、現在の仁王門が再建されたことが判明しました。
 仁王門基壇の移動は土砂崩れ等の災害によって、移動を余儀なくされたであろうことが推測されるのですが、現存する金剛力士像(仁王像・舞鶴市指定文化財・鎌倉時代)の内、吽形像の破損状況が、「建物の倒壊等によって押し潰されたような傷み方をしている。」と指摘されていることとも一脈を通じる事象と言えます。 何れにせよ、400年ほど前の仁王門周辺の景観は、現在とはかなり違ったものであったことでしょう。

 今回の発掘調査は、複雑に積み重なる地層や出土する遺物に、松尾寺のリアルな歴史を感じることのできる貴重な機会であったと同時に、その成果は松尾寺の長い歴史に新たな視点を与える有意義なものとなりました。 
寒中の作業にも係わらず、真摯に発掘作業に取り組んで頂いたシルヴァー人材センターの発掘隊の皆さん、並びに専門家の立場から土、日の休日も返上で調査に没頭していただいた舞鶴市の関係職員の皆さまに、深く感謝申し上げます。

※今回の発掘調査に関する結果報告は舞鶴市のホームページに公開されております。
興味をお持ちの方は舞鶴市ホームページにアクセスして下さい。

 


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仁王門発掘現場全景
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手前と奥の石列の間に溝を設け、奥の石列のさらに向こう側には、平安後期から江戸初期にかけての建物(おそらく仁王門)の基壇が広がっていると考えられる。
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修理中の仁王門の柱
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傷みが激しく各部材にヘシャゲタような損傷が見られる吽形像。仁王門の倒壊によるものか?



銅板瓦の墨書

 解体を終えた現仁王門の屋根が、銅板を整形して本瓦葺風に仕上げたものであったことは前回お伝えした通りです。
 ドローンを使った事前の調査で銅板瓦に文字らしきものが確認されておりましたが、多くの銅板瓦の表面に寄進者の住所、氏名、生まれ年の干支、そして供養の願意などが墨書されていることがわかりました。 何面かの墨書は極めて状態がよく、緑青の中に鮮明に文字が浮かび、とても90年の間、雨風に晒させてきたものとは思えないものでした。 実際、新しい銅板に墨書して暫く放置してみますと、墨の表面に銅の成分が浮かんでくるのでしょうか、色味が白っぽく変化して容易には拭えなくなります。
 当時の人々がこのような現象を理解して意図的に墨書したものかどうかは判りませんが、風雪に耐えた文字からは供養者の思いが直に伝わってくるように感じられました。
 今回の修理に当たっても、ご希望の方にはお供養、その他の願い事などを所用の銅板に墨書していただく準備をしておりますので、ご寄進頂く際にお申しつけ下さい。




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