「善友第一の親」(或る同窓会にて)

 私は一応世話人として名を連ねておりますが、顔を出したのは今日が始めてで、運営の全ては他の世話人の皆さんのお力添えによるものであることを、一言感謝をこめてお断り申し上げます。
 さて先程は、昭和二十一年度の入学式に臨んで、私が入学者代表として宣誓文を読んだ由の御紹介 がありましたが、そのことで当時、 私が首席で入学したと思われた向きもあったと聞き及んでおります。併し、その後の私の学業の実績によって、この誤解がとかれるのには、さして時間を必要としなかったのであります。
 実は、私の旧姓はイから始まり、アに該当する人がアイウエオ順のクラスの名簿にはなかったため、式場で突如指名される事態となったのでありました。全くのぶっつけ本番で緊張の余り足が震えたのを今も覚えております。
 ところで、在校中、その後にも一番手に登場する出番がありました。当時、NHKのラジオ番組では宮田輝というアナウンサー司会の「素人のどじまん」 が人気抜群でありました。
 時に学校の文化祭か何かで、 校内独自の「のどじまん」が開催されたのであります。司会者 が出席者に出演をしきりに促すにも拘らず、一向に一番手を買って出るものがありません。
 そこで入学宣誓をした義理ではありませんが、私が挙手をして最初の出番をつとめることになりました。演目は「祇園小唄」。ところで第一句の「月はおぼろに東山」と歌っただけで上ってしまい、文字通 り二の句がつげません。そこで、否諾(いなう)もあらせず大太鼓一発。 ─確か鉛筆を二本か三本もらって降壇という仕儀になりました。時にこの太鼓を叩いていたのがNさんで、実は彼は、後年或る日の日本経済新聞の「交遊抄」に私が西国札所徒歩巡礼をつづけていることを記事にしてくれました。既に故人である彼のことを、先程の黙祷の折思い出して寂寥の思いを新たにしました。
 さて入学して入った寄宿舎の部屋には、同クラスのM君とK君がいたのでありますが、奇しくも後 年、M君の二人の妹をK君と私がそれぞれもらうこととなり、こゝに三人の義兄弟が生れることになりました。二人の義兄弟というのは少なからずあるようですが、三人というのは珍らしいようで、これもこの学校に入学したおかげと思っています。しかし、中には、余りにも選択岐が狭かった、もっとけな 視野を拡げるべきであったと貶(けな)す向きもありました。
 それはさておき、この部屋の室長というのが海堀さんでした。ところで昨年日本国中を歓喜と興奮の坩堝(るつぼ)と化した、あの例のなでしこ・ジャパンの名GK、海堀選手の名を御存知ない方はないでありましょう。PK戦で最初のアメリカ選手が蹴ったボールを物の見事に阻(はば)んだ瞬間、我々は勝利の予感 覚え、遂に日本の勝利は現実のものとなりました。この海堀選手こそは、時の室長海堀さんのお孫さんに外なりません。この事を御存知ない方も多々あったと存じますので、この場に臨席の海堀さんに盛 大な拍手をお願いいたします。
 さて、この拍手のついでに、私から折り入ってお願いがあります。
 この会では、終幕に臨んで肩を組み合って、「琵琶湖周航歌」を合唱するのが恒例になっております。 ところで、この第六番は「西国十番長命寺」で始まることは御案内 の通 りであります。併しながら、 この歌詞は御承知の通り間違っていて、長命寺は西国三十一番であり、 語呂合わせのため取りあえず十番となったものと思われます。
 そうした次第でありますから、 世話人に免じて、今日のところは一つ、「サイゴク二十九、マツノオジ」と歌っていたゞくわけには参りますまいか。私の住まう山寺は、周囲の民家十戸にも満たぬ 文字通りの過疎集落で、第二句の 「汚れのうつし世遠く去りて」いることでは人後に落ちません。
 そしてまた、背後の山を登れば、洋々たる「黄金の波(にいざ漕がん)」を見遙かすこともでき るのです。
 私の一生に一度のお願い、お聞き届けいたゞけますでしょうか…。
 ありがとうございました。
 さて、我々も八十路を過ぎ、人 生のゴールも間近に見えて参りました。生ある只今こそ尊い瞬間といえましょう。高名な椎尾弁匡師は歌いました。
 時は今 ところあしもと このことに 打ち込むいのち とわのみいのち
 であります。しかし、同窓会に、いのちをうちこむ、などはいくら何でも大袈裟に思われます。しかし、二年前のこの会で、Oさんは 自らの強( た)っての希望で開会に臨んでの校歌合唱の旗振り役を願い出たのでありました。既に重病に犯されていた彼の所作は誠に痛々しいものでありましたが、役柄を終えて自席に戻った彼のホッとし た姿は今も思い出されます。
 その年の秋、彼は還らぬ人となりましたが、奥さんの申出で、 その墓碑に戒名を書くことを依頼されました。
 他ならぬ、彼は私どもが寄宿舎に入った時、その部屋の副室長でありました。六十六年前、彼と始めて逢った日の事を覚えておりますが、よもや彼の戒名を書く巡り合わせになるなどその時夢想だにしなかったことでした。
 ともあれ、Oさんにとっては、 当の同窓会でのリーダー旗を振る役柄は、文字通 りの「時は今」 であり、「とわのいのち」を心に秘めての役柄であったのではないでしょうか。
 青春の思い出こそは、夫々の生涯にあって絶えず勵みを与えてくれる文字通 りの「再生可能エネルギー」の源でありましょう。それらのことを回顧しつゝ、「時 は今」、大いに語り合い盃を傾けようではありませんか。
 よって法句経にも説きます。「善友第一の親」なりと。
 皆さん、本日の御出席まことに御苦労様でした。




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