魂魄の出入(仁王像の解体と位牌の入魂)

 さる平成十七年十二月一日、根立京都大学教授の調査によって、鎌倉期の作と評価いただいた松尾寺の仁王像は、京都国立博物館にある美術院で解体修理する運びとなり、昨十九年十月九日、魂抜きの儀を行ない、美術院工房に運ばれて、十一月十二日より解体が始められました。
 期待した銘そのものは、目下出ておりませんが、奈良国立博物館の鈴木上席研究員からも極めて高い評価をいただいておりまして、今後の調査研究に待つものが数少なくありません。
 正徳三年(一七一二)に修理をした墨書が見られますが、当の修理のための寄進者は、勢州(伊勢)の富田源治氏でありました。然もその名が当時の松尾寺の過去帳にも記録されていたことは驚きでした。もしも、像の解体がなければ、仮りにこの過去帳の名に眼をとどめても、いかなる当山とのつながりのある方かを知ることはなかったでありましょう。こうした墨書一つにも歴史が発掘され、その重さを痛感いたしまし た。仁王像の明日を期待しています。

 天田愚庵のことは私の拙著「歌僧天田愚庵の巡礼日記」に詳しく記しておりますが、嘉永七年(一八五四)平藩(福島県いわき市)に生をうけ、十五才にして戊辰の役に参加、戦敗れて後、仙台より帰郷してみれば、何ぞ計らん、父母妹はまるで神隠しにあったようにその姿を消していたのであります。爾来、五十才(一九〇四)で歿するまで、彼の一生は、この父母探しに、費されたといっても過言ではありません。その父母を想う至情は多くの人に深い感動を与えました。
 一方、上京の後、縁あって山岡鉄舟の弟子となり、更には海道一の大親分、清水次郎長の養子となり、転じて由里滴水老師の下で得度して僧侶の人生を歩む。しかも、文才にたけ、正岡子規とも交遊、子規に和歌を教えたのは、他ならぬ 愚庵でありました。
 その波瀾万丈の人生、そして前記以外に彼をめぐる当時一流の有名人(陸羯南、与謝野鉄幹、品川弥次郎、三遊亭円朝等々)は綺羅星の如く、その文才に至っては、漱石が彼の漢詩について

 一東 (註)の韻にしぐるゝ  愚庵かな

と詠んでいます。又彼の和歌に関しては、相馬御風、吉野秀雄、斉藤茂吉、吉井勇といった巨匠が賞讃しているのです。

 ともあれ、私の著書が機縁となり、昨秋、いわき市市民大学に講師として招待されました。  かたわら、愚庵会では新しく愚庵の位牌を作っておられ、彼が晩年を暮した京都、伏見桃山の愚庵邸(邸の名も愚庵)は、有志の手で、いわき市に移築されており、その旧邸でお位 牌の魂入れをさせていただきまし た。
 舞鶴の山僧が遠くいわきまで足を運ぶ縁が生れ、しかも、彼の邸で、その位 牌に入魂の儀をさせていただくとは、僧侶冥利というものでありましょう。因みに位 牌には 天龍第一座愚庵鐵眼和尚禅師 と刻まれておりました。
 愚庵が生前特に心を許した、法兄、橋本峩山管長の眠る天竜寺塔頭鹿王院にまつられている位 牌と同じものである、とのお話でありました。
 以上、鎌倉期の仁王像、そして歌僧、天田愚庵の位牌をめぐる貴重な出会いでありました。

(註)一東とは漢詩に用いられる韻のことである。




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