松阪・富山淨源氏のこと

 小紙先号では、当寺の仁王像 が、根立京大教授、鈴木奈良博 物館上席研究員等に高い評価をいただいて、京都市、美術院で解体修理の運びとなり、加えて、東大寺仁王像とも近似性が注目されることを申述べました。
 つきましては、その使用木材の年代調査が目下奈良文化財研究所で行なわれております。東 大寺の場合は、吽形像の根幹材の一つは一一九六年、冬季より春までの伐採で、山口縣佐渡郡築地町近辺の山から伐り出されたものである、と鑑定されました。八百年もさかのぼって、年次が確認されるのみならず、季節、地域まで限定をみていることは全く驚きでありました。
 さて、我が仁王さんのDNA は如何でありましょう。その鎌倉初期以来と目される仁王さんの心音に、大きな期待を寄せて耳を傾ける毎日であります。
 ところで、二像のうち、阿形像は正徳二年(一七一二年)に、 勢州(伊勢)射和住、富山淨源 氏が施主となって京都で解体修理されていることが、その頭部に書かれている文字から判りま したが、当の富山氏については更に次のことが明らかになりま した。
 すなわち当寺の過去帳(寛延 三年・一七五〇)をひもどくと、 三十六体の戒名が記されたあと、 先祖代々六親眷属乃至法界平等 普利
    正徳二辰 霜月 施主
      勢州  射和住 富山氏
と記されているのでありま す。正しく、仁王像と時も同じ 現在の松阪市射和町の住人であ った富山淨源氏に他なりませ ん。仁王像の解体はその修理の施主人と過去帳の三十六霊の供 養の施主人との一致を教えてくれたのであります。
 更に、本尊脇侍の地蔵菩薩像 の台座、光背を調べたところ、 ここにも「宝永二年(一七〇五)」 の年号と共に、「勢州富山喜右 ヱ門」の施主名が記されている ことが分り、光背にも、有縁の法名が書かれていてその菩堤を祈っていることが分りました。
 仁王像の修理は京都(大仏師、 京新町、栗林長右衛門)で行なわれており、何れ台座、光背の たぐいも京都市中でありましょ うから、その運搬等を考慮すると、巨額の経費が投ぜられたことは疑いありません。
 それでは富山家とはいかなる 家であったのか、インターネッ トで調べましたところ、次のよ うなことが判りました。
 松阪で、最初に、伊勢商人として三井と並び称された射和 (いざわ)の富山家は、「伊勢おしろい」の精製で基礎を固めたあと、四代栄重が一五八五年 (天明五年)に小田原で呉服商を始め、一五九二年(文禄元年) に江戸本町一丁目に呉服店を開業しています。
 一方、射和の本家は、一六六 三年(寛文三年)に当地の本町二丁目に、又その翌年には京都室町に呉服店を開業しました。 その後両替商も開業して、一七 二五年(享保十年)には幕府公金為替の取扱いを始めることとなり隆盛の頂点を極めたので あります。
 その資産は、一七一五年(正 徳五年)には、拾五萬三千二百八十九両であったということで、茂木陽一氏の試算では、今日の貨幣価値で千五百億円ぐら いになるのではないか、ということです。(茂木陽一「伊勢商 人と地域社会」より)
 以上のことと照合しますと、台座、光背新調の一七〇五年、仁王像修理の一七一二年は共に、富山家の絶頂期の寄進であったことが分るのであります。
 更にその後本堂内で、前記過 去帳に記された戒名三十六霊を ことごとく記した大きな位 牌が見出されるに及んで、三百年前 の松阪在の三井と並ぶ大資産家、富山家のお力添えに、一層感謝 の念を深めたものであります。
 この事実にかんがみ、今回の 御開帳に臨んで、御寄進の方々の芳名を記した過去帳を作り、併せて、修理中の仁王像の胎内 にもその名を録した巻物を納めることにしております。





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