時は、昭和四十七年七月下旬、 午後二時、盛夏の最中で気温は体温を超えていました。所は日吉の慶応大学陸上競技場、私は写
真 の粧いで八百M徒競走のスタート 線にありました。
実は、戦後廃止された旧制高校の陸上部が往時を偲んで交歓試合が催されていたのであります。
私は、陸上部に属したことはないのですが、後に縁あって応援団の資格で、卒業後の変則部員となったもので、元より正規のトレーニングになじんだことのない、いわばアマチュアであります。
それでいて、プロ(?) たちに伍して走ろうというわけです。一計を案じて、卒業後、既に二十
年、老の影は御多聞に洩れず忍び寄っているに違いない。それとて、長距離ほど、その影響は大
きいであろう。
ならば、最長距離八百M徒競走を選ぶに如くはない、というのが、ミドル競走の苦難を知らぬ
素人の浅はかさでありました。
さてトレーニングとなると、山寺では急坂に事欠きませんが、それだけでは、グランドの走法とは異種のものになると教えられ、地
元の国立高専の四百Mトラックを許しを得て早朝に走り込むことにしました。ストップウォッチも買
い込んで。
かくして冒頭のスタートを切る仕儀となったわけであります。さて走り出すと、無二無三、はやりにはやる心と体は、ペースを心得ることなど何のその、一周四百M
まではトップ…こゝで先頭走者のタイムを告げられる慣例がある由…さて告げられたタイムを聞いて愕然としました。
後四百米を相応に走れることは不可能なオーバーぺース、と分かった途端、プロたちは無惨にも健気(けなげ)なアマを追い越してゆきました。5位
でゴール・イン。タイムは三分六秒。オリンピックなら優勝者は四百M近くリードしているタイムでありました。
グランドに転げ込んだ私は息も絶え絶え、肩で息していました。幸い、畏友、持田氏(故人・青函
トンネル掘削の責任者で、彼の働きぶりは後年、東宝映画「海峡」で高倉健が演じた)の懸命に送ってくれる団扇の涼風がなかったら、どれ程苦しかったでしょう。
後年、大峰山の奥駈修行をすることなどによって、私は、六十才 から西国札所徒歩巡礼を思い立
ち、七千粁を歩むこととなる原点 は、この慶大グランドでの八百M 徒競走であったと思います。
練習中の筆者
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