死の不安を除くための念仏

 新しい墓石ができたので、古い墓の魂を抜いてほしい、という檀家の申し出に応じて、山間(やまあい)を縫うようにして当家の墓地にたどりついたのは、或る年の晩秋のことでありました。
  亡き人を埋めた場所を標示すべ く、苔むした石塊が置かれた十数基の墓のある墓地は森閑として静まりかえっていました。元より死 者の名前も続柄も全く不明で、総 じてその全てが△△家先祖精霊に他なりません。
  落葉に埋もれたその墓所を見下 すように一本の柿の木がその枝を垂れ、それには熟し切った二つの赤い実が残されていました。
 墓石と柿の実の生死の対比に気 づいた私は、
 柿二つ 残して墓石(いし)の 魂(たま)移す
 と、手馴れぬ句をひねってみまし た。
 ともあれ、墓石の下に眠る諸 霊の個々の経歴を知る手懸りはありません。しかし、そこに埋められた人々のこの世での営み が、魂抜きを依頼する施主の今日(こんにち)を陰に陽に形造ってきたことは疑いありません。因果 の無数の網目は、現代に至るまで数限りない因縁を形造ってきたのであり、この因縁の連鎖を認めて故の、魂移しに他ならないのです。
 また或る寺院では、数多くの人の納骨を一つにしてお骨による仏像を造って供養することが行われています。ここでも個々の霊の過去は顧みられず、先に触れた墓地の一括しての先祖精霊と等しく、所詮は、「倶会一処(くえいっしょ)」というこ とでありましょう。
 それでは、この「一処」とはいか なる所でしょうか。古来最も不可解とされる死後の世界であります が、五大(ごだい(註1) )(地水火風空)が因縁によって集まる処に生があり、それらが散ずる処に死が訪れて素(もと)の世界へ還ります。あえて、「元」とせず、「素」とする所以(ゆえん)は、人体を構成する要因となっている水素などは、百五十億年も前から存在しており、五大と称するものも、それぞれ長い年月を経てその要因となっているからです。
 一方、生命はその生れる時は文字通りの裸一貫であり、死に臨んでは何物も手に携えることはできません。その意味では、素顔(すがお)、素手(すで)などという如く、素(す)の世界であり、同時に無であります。
  あの世とは、こうした素(もと)と素(す)の二面性を具えており、またこの世にあらゆる生を送り込むと同時 に、その生を無に還元させる巨大 な世界であって、この生死の循環 が「輪廻転生」の考えを生む所以ともなっているのであります。
 この「素」と「素」の二面性が結びついて生命がこの世に送り出されると考えられるのですが、この生命誕生の核となるものの神秘な働きを考えるために、我々の「心」 を手懸りに考えてみたいと思います。
 一般的に心と称せられているものは、肝臓から胆汁が出る如く、或いは腎臓から尿が出るように、脳の何らかの働きに由来するものでしょうか。
 著名な脳神経生理学者、ペンフィールド (註2) は、ギリシャの医聖ヒポクラテスが、「脳は外界との仲立ちをつとめる(通 訳)器官に過ぎず、 人間は心と脳の二つの基本要素から成っている」と考えたことに対して、彼は数多くの解剖、実験、研究を通 じてヒポクラテスの考察の誤りのないことに驚嘆すると共 に、「科学者も誰はばかることなく、霊魂の存在を信じ得ることを発見した」と述べています。
 ただ、ここにいう霊魂とは、空間的な存在ではなく、「聖」の理 念を伴った不滅の存在であります。同時に新しく生れたものでもありませんから不生であります。
 たとえば、『美しい花』と表現された場合、花は存在しますが、「美しい」というものは何処にも認めることができません。美は理念であります。
  一方、「聖」という理念を通し て、その存在が感得されるものが霊性であって、

 なにごとが おわしますかは知  らねども かたじけなさに 涙  こぼるる

の和歌では、「なにごと」が「神聖な霊性」に相当します。
 くり返しになりますが、花と美 は不即不離の関係にあり、同時に霊性は聖と不即不離の神秘な存在 といえましょう。
 したがって、霊性とはその尊厳性(聖)を通して感得されるなにものかであります。
 しかしながら、人は端的に死を怖れます。今、働いている五感の全てを失い、不可解な世界に遷(うつ)り漂わなければならない不安定な戸惑いに恐怖心を募らせます。
  この恐怖を除くための念仏について、鈴木大拙博士は、その『仏教の大意』の中で、大要次のことを述べています。
 念仏(博士は「念彼観音力」を引用)する時の念(傍点・原著)とは、我々の存在の母胎である宇宙の念そのものであって、人の念は、この宇宙の念を喚び醒し、いわば個人と宇宙の念が共鳴して広大な気概を産む。たとえば観音を念ずれば、観音力が働いて、翼々(よくよく)たる人の恐怖心を取り除いてくれる(博士は「気宇王のごとし」と表現) 所以となる、と説くのでありま す。
 もとより阿弥陀仏を念ずればその本願力にあずかるわけで、 妙好人の念仏はその好個の例といえましょう。
 たとえば、出雲の国の才市(さいち(註3))は下駄職人で、鉋(かんな)で削った鉋屑に 生涯かけて万余の歌を書き遺(のこ)してその信仰を綴っています。その 一つに、

 なむあみだぶつは みだのこえ  わたしゃ あなたにおされて なむあみだぶつ

と、詠っています。私の念仏は、 他ならぬ阿弥陀如来の声であ る。私は阿弥陀さんに促されて念仏しているのだと、というのであります。
 ここには、才市の念仏が、阿弥 陀仏・宇宙の念と相通じ共鳴している所以が表現されています。
 終りに、或る老僧の最後について、次のような話が伝えられています。
 箱根の山中、一人の病んだ老僧 が大樹の下に臥しておりました。 通りがかりの旅人が、手持ちの薬を勧めたところ、老僧は応えます。
 否。もはや我が死は避けるべくもない。幸いにして、大空を仰ぎ みるこの広々とした場所は、我が身を納める棺に他ならず、四方(よも)に咲き誇る数多い草花こそは、我が死出の旅路を見送る供花に他ならない。以て瞑すべし。御親切はかたじけないが、薬餌(やくじ)は御無用に願 いたい、と述べて、再度樹下に身を横たえのでありました。
 その魂魄は、広大な宇宙へ移ったことでありましょう。(本稿は「大 法輪」八月号記載文の要約)

 湯橋十善医博(さいたま県加須市・十善病院院長) 御寄進の般若心経彫刻額・素材は300年乾燥の欅・文字には天然カシュウを使用。 先生は西国・四国を巡拝、彫刻歴は37年に及ぶ。(横162B・縦51B)

 

〈註1〉五大─全ての物質を形成する働きのある地水火風の四大と、空大は物質的なものとしての虚空。
〈註2〉ワイルダー・ペンフィールド(一八九 一〜一九七六) ─カナダ人、マギル大学教授。大学で哲学を専攻の後、生理学、神経学を経て、脳外科に至った。この分野での世界的巨人と岡本道雄元京大総長は評価しておられる。
〈註3〉浅原才市(一八五〇〜一九三三)妙好人とは市井にあって念仏一途で生活する人の尊称。




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