平成二十六年七月八日の日経新聞の「春秋」欄に「人が歩けば足跡が残るように、人の旅した土地には、エネルギーと魂の跡が宿る」という、オースト
ラリア先住民族、アボリジニの言葉が引用されていました。
道で世界遺産に登録されているのは、我が熊野古道とサンチャゴ巡礼道でありますが、これこそは、エネルギーと魂の宿る道であり、血と汗の結晶といえましょう。
幸いにして、熊野古道は中辺路、青岸渡寺より瀧尻王子に至る約八十粁の道を我々夫妻は九回も歩む機会を得ました。
ところで、我々が行を共にしている徒歩巡礼の会(アリの会)には、長迫(東京女子医大名誉教授)、増田(3・11前・元、東電福島第一原電副所長)両氏が、夫々に巡礼のコースも変えて、数回、当のサンチャゴ巡礼の経験を重ねておられ、正にその道の大先達に他なりません。
時恰かも、伊達政宗の家臣、支倉常長(はせくらつねなが)のスペイン渡航の四百
年目の節目に当り、御両所より一度行を共にしては、とのお誘いがあったものの、海波千里を隔てゝの旅に高令の身は尻込みする思いが拭えませんでした。
併 し、これが縁というものか、 何とはなく機運も熟して、都合十三人参加の旅が決りました。
但、折角の渡西、首都観光という要望もあり、巡礼道に宛てられた日程は二日間で、約30km余というミニチュア版となりました。
さて、白衣に笈摺(おいずる)、輪袈裟といういでたちは、並み行く外国人達の恰好のカメラの被写
体となり、挙句、「ワン、シャッター、ワン、ユーロ」と語りかけますが、笑いの返礼に終始したものです。
さて、大聖堂を見遥かす「歓喜の丘」は、今回の巡礼での極めつきでありました。陸続とつづく巡礼者たちは、今や目的地間近しと、先を急ぐのでしょう
か、全くこの地に足を運ぶ人はなく、私達一行のみが増田先達にこの穴場への案内をうけたので
した。
三米近い身長の二人の巡礼者 が、八百粁の旅の終焉を間近に、目指す大聖堂を望見して、歓喜の余り、「ウルトレーヤ」と雄叫ぶさまが銅像になっているのです。
これになぞられて、私達一同も銅像の指恰好を真似て腕を高らかに挙げて、「ウルトレーヤ」と合唱したものでした。
此処は、熊野古道で、辛苦の歩みを重ねてきた巡礼者が、目指す本宮を望見して感動した「伏拝(ふしおがみ)王子」と全く対照的であります。
さて、いよいよ大聖堂に着いて、正午に始まるミサに参列することになりました。堂内を埋め尽くす二千人にも達するかと思われる参拝者に混っておりますと、思わぬ
ハプニングが生れました。
増田氏が堂内の人に取り次いで、大司教の立つ祭坦に最も近 いロープで囲まれた処に、私たち夫妻が招ぜられたのであります。そこに居並ぶ二十人程の信徒と並んで、私たちは身を固くしていました。
パイプオルガンに和す老修道女の高雅な讃美歌、居並ぶ司祭の説法につゞいて、大司教に拝礼すべく進み出た我々二人の異
教徒の緊張感は極度に高まっていました。
そして最後に八人の司祭が綱を引いての、70kgの銀の大香炉が天井近くまで左右に空を切る最高の見せ場となります。
十数回に及ぶかと思われた振 り子は漸くにしてその動きを止めると、堂内には一斉に拍手がこだましました。
今回の出国に先立って、知友E氏より、御令弟(72)が昨年、 単独で二十四日間かけて五七〇粁を歩まれた巨細な道中記を拝見して、これに比すれば我が道行きは、吊鐘に比す提灯にも及ばぬ
ことながら、国内巡礼道は七千粁を歩んだ経験とも深く共鳴し、広く共感するものを覚えて、紙上巡礼の一刻を楽しませていただきました。
大司教に拝礼
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歓喜の丘にて(大聖堂まで4.5km)
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