地元出身、岡本道雄元京大総長から贈呈いたゞいた著書「立派な日本人をどう育てるか」(PHP研究所)には、次
のことが著されています。
「かつて田中美知太郎先生から話しを伺ったとき、今の教育で一番大事なのは『国を大切にすること』と同時に『親孝行』
であるといわれ、驚いたことが ある。(中略)後年、先生のお弟子である藤沢令夫教授に、ギリシャ哲学で親孝行と愛国心はどう扱かわれているのか質問し
てみた。
藤沢教授は岩波書店の『プラトン全集』を田中先生と共に訳された方だが、親孝行と愛国心に関する内容が溢れるほど書かれているのをお示しいたゞき、一驚したことがある。しかも平
易な文章で、わかりやすく書かれていたのである。」 と記されています。これは、彼以後の哲学は、いわばその脚註にすぎないと評される、巨人プラトンの説く処なのであります。
ところで、岡本先生の御母堂にまつわる話でありますが、総長在任当時、折しも大学騒動の最中で、先生の帰宅は絶えず深夜に及んだのですが、どんなに
遅くても帰宅した由を告げてほしい、とのお母さんの御意見に、その約を違われることなく、しかも、その都度、いつも御母堂の肩をもまれた、ということです。後年、お母さんは先生の令姉に「道雄の肩もみは痛かった」と、その孝養を愛(め)でながら、苦笑しておられたそうです。
林舞鶴市民病院長御退任の宴席にて (右より2
人目、岡本先生、林院長、筆者 昭和55 年4 月)
|
話は変りますが、今年二月二十五日、残雪もまだ堆(うず)高い当寺
へ、突然訪ねて来られたのが近江八幡市の山口氏(70)であります。聞けば、御亡父の写
真が出てきたが、それは海軍々人同輩二十八名と共に、昭和十八年八月二十九日、当寺に訪ねてきた折りの記念写
真である由の説明が記されており、早速、その場を求めて当山に駈けつけてきたのだか、この写
真の建物は今もあるのか、という照会でありました。
拝見すると背景になっているの は、勅使門であることは一目瞭然、早速その場に案内して、居並ぶ水兵の二列目左端で、今もある百日紅(さるすべり)の傍らに立つ父君
と、同じ場所に立ってもらって記念写真を撮りました。
御尊父は、その年の十二月三 十一日トラック島より輸送船で移送される途中、触雷のため、戦死しておられ、当年生まれの山口氏は父君と見(まみ)える機会はなく、たゞ七十年前に父君が撫したであろう、或いは寄りかゝっ
たであろう百日紅だけが無言で佇立しているのであります。文字通り、瞼の父を偲ぶ山口氏の心情を察して思わず涙したものであります。
話は変りますが最近、地元で整理される旧家から、沢山の本がもたらされました。土地柄海軍関係のものがあり、中にも、海軍兵学校等を卒業して、士官
候補生となり遠洋航海に出た時 の記念写真のアルバムが年次別に数多くありました。
中に、大正十五年三月二十七 日に、江田島を出た八雲、出雲の二隻の練習艦は、十一月三日、英領マルタへ寄港、所の司令官、
キース英海軍大将の訓話に乗組員は耳を傾けています。
「諸君の司令官は諸君に対して、一言の教訓を与えるようにとの希望でありました。私は諸君の国語の中にある『武士道』
なる一語より外適切なるものはないと思います。其の言葉の意味は、日露戦役当時日本陸軍に従軍して居た『タイムス』通
信員の著『国民の精神たる武士道』という小冊子によって学びました。日本にとって最も暗黒
なる時期に於いてすら、人は日本が必ずやこの戦争を光栄ある結果に導くべきことを疑いませんでした。(中略)武士道の大義を学んでいるような国民は、たとい全滅することがあろうとも敗北することはないからであります。
私は若し自分の息子達が武士道に感激し、其の理想に従って生涯を送り得たならば満足であります。」
骨子のみを要約すると上のような内容であります。これを今次大戦後に引き換えてみますと「武士道精神だにあるならば、たとえ敗北することがあろうとも、全滅することはない」現実を迎えている、といえるのでしょうか。
顧みれば、当時より遡ること、二十五年前、明治三十二年、新渡戸稲造の有名な「武士道」が発刊され、広く諸外国で翻譯されると共に、時のルーズベル
ト米国大統領にも愛読されて、彼の日露仲介への機縁ともなり、尠なからず日本救国の一役を担ったことを忘れてはなりますまい。正にキース大将賞揚の所以であります。
たゞ、この誇り高くあるべき 国民が、数百人ともいわれる人達をいわれなく他国に拉致され、当初はその事実もしらず、その後二十年、三十年、なすべ
き方途すらなく、切歯扼腕するのみであることを顧みる時、愛国心の発露はいかにあるべきか。
平和ボケに陥ることなく、高い品位と誇りを保つ外交、そして事件抑止への更なる強固な警備を必要とすることはいうまでもありません。
父君の位置に立つ山口氏
|
|
勅使門前の29 人の水兵
|
|