これは、昨年11月初め、NHKのラジオ放送で聞いた話です。高見順が癌のため死期近くなって、旧制一高時代の同級生、中川宗渊師が見舞っていますが、時に中川は、高見の生命維持装置を自らの手で外し、アッと驚く医師に一輯(しゅう)して、そのあと朗々たる読経二時間の後、「喝」の大声と共に、高見は妻を見やりながら息を引き取った、という話が
山田風太郎著「人間臨終図巻」から引用されていました。
中川師が我が友の息遣いをそれとなく眼にしながら経文を誦みつづけていたのでありましょう。また恐らくは、その日のあることを高見は、生前師に依頼
していたのに違いありません。
そこには、綿々たる生への執着がなく、誠にカラリとした生死一如の面
目がみられます。とはいえ、維持装置を外して後の一瞬一瞬は、まことに鬼気迫るも
のを覚えます。
あえて師の話題を述べたのは、私自身、西国、四国の徒歩巡礼を重ねて七千粋を歩んだ所以の一端は、極度に弱視の山本玄峰老師(後に、中川宗渊師の
師となる)が四国八十八ケ所を巡ること六回半、三十三番雪蹊寺に行倒れにもなろうかという有り様で訪れた時、住職山本太玄師に救われて出家した話も大
きな示唆になりました。
ところで、後日、当の玄峰老師の生涯を語る「高木蒼悟著 玄峰老師(大蔵出版)」を知人より贈られたのですが、その裏表紙には、何と二頁にわたって、中川宗渊師
の見事な添書(写真)が書き込まれていたのであります。
NHKラジオの感動の話題を通じて、改めて、当の「龍水を得たり」の文字を見つめたものであります。
中川宗渊(1907 ─1984)
岩国市生れ。東大国文科卒後、昭和六年得度。同十年、三島、龍沢寺で山本玄峰師に師事。アメリカにも布教、ゼロックスのカールソン会長も帰依し、その寄金により昭和五十一
年、ニューヨーク郊外の広大なキャッツヒルに「大菩薩禅堂」を建立した。
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