「アリの会」の解散に臨んで

 平成二十七年八月四日、朝、東京都の北條謙二氏が来山されました。  聞けば、私が七年前、NHK教育TVの「心の時代」に出て西国札所徒歩巡礼について語っているのを観て、語り手がこの年令でも徒歩巡礼が出来るのなら、と一念発起、少しづつ区切って歩み、五年目にして当地に到着できた、との話。  今回は、JR播但線、生野駅を出発、成相山を経て当寺へ到着の由でした。猛暑下、正午より午後三時までの歩みは避けているので、昨日午後三時、東舞鶴を出て四時半にJR松尾寺駅に到着、無人駅で一泊して今朝当山へ来山の由。  野宿もできる荷物は十五瓩、酷暑の午後は避けるとは云い条、まことに苛酷な徒歩巡礼であります。日焼けした六十才余の壮漢の巡礼姿に、改めて畏敬の念を覚えました。  顧みて、西国札所徒歩巡礼を思い立ち、「アリの会」を立ち上げたのが、昭和六十二年十一月四日のことでありました。  その後西国札所を巡ること五回、四国八十八ケ所は一周半、小豆島八十八ケ所遍路は一周百五十粁で七日を要しました。   また、昔は三十三番谷汲山の打ち止めを終えると、江戸から来た人は中仙道を経て善光寺に参り、南下して帰途についたという。その例に慣い、この道二百八十粁も歩みました。  都合、私ども夫婦は、七千粁を歩んだのであります。(法務のためやむなく欠行した私どもと異なり、壱萬粁近く歩んだ会員もあります。)   就中(なかんずく)印象深いのは、一番那智山を出て、大雲取、小雲取を経て、滝尻王子に至る八十粁の道で、私どもは九回行路を重ねております。  最初は、平成元年十一月一日、那智山を出発したのでありますが、道中、人っ子一人出会うこととてなく、先達をつとめていたゞいた新宮山彦グループの、東、山上両氏が、通 行を阻んでいる路上の木や竹を、手持ちの鉈(なた)で切り拓(ひら)き先導してもらったこともありました。山道にはりんどうの花がぎっしり咲いておりました。以て「世界遺産」指定後の道の様相が一変したことが御理解願えると思います。  そして目指す紀三井寺到着は、十一月七日十時半、本堂で跪拝し般 若心経を読誦する同行一同の眼には、光るものがありました、六日半、二百粁のこの旅ほど印象深いものはありません。  その他、有田川を渡る橋の上では、吹雪に悩まされて管笠が飛ばされそうになったこともあり、大和路では、洪水の中を歩むのかと思われる程の豪雨に見舞われ、また、炎天下にあえいだ挙句の昼食の冷素麺が格別 の味わいであったことなど、思い出は尽きません。  目的地への往復の行路も含めると、延べ四百日にものぼる旅をしたことになります。そして、冒頭に述べましたNHK・TV やラヂオでの數回の出演(「心の時代」)は、多くの賛同者を得て、蟻の熊野詣に因んで名付けた「アリの会」会員は百三十人にのぼりました。  烏兎?々(うとそうそう)、発会以来既に二十八年、物故者も三十人を超え、私自身も昔流には米寿を迎える身となり、とりあえず茲に「アリの会」を解散(十月二日)することになりました。  かつて、阪倉篤義京大教授(故人、国文学)から便りをいたゞいたことがあります。  私は軍隊にあって、中国大陸を無二無三にひたすら歩かされた経験があるが、血と汗の結晶の巡礼道の貴方の道行きは、まことに意義深いものがある  との趣旨でありました。  最後に、アリの会々歌を記します。 落葉しく道 花の道 山道 野道 峠道  玉なす汗の けもの道 歩もう歩もう たゞ歩もう 我らは行ず アリの会  (詩吟)  行路は難し   水に在らず 山に在らず   ただ人情反覆(はんぷく)の間にあり 雪の舞う日も 雨の日も 炎熱灼(や)く日 凍る日も  倦(う)まず 弛(たゆ)まず 挫けずに  歩もう歩もう ただ歩もう  我らは進む アリの会 連なる愁(うれ)い 尽きずとも  山なす欲(ねが)い 重ぬ とも  神(こころ)を鎮(しず)め 念(ねが)い断ち  歩もう歩もう たゞ歩もう 我らは信ず アリの会
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 白楽天をまつまでもなく、人心の行き交いの不可解は、山河のいかなる険阻をも超えている。この重荷を軽減する願いを巡礼に托して、人は旅に出る。  「歩く宗教」である巡礼は、「坐る宗教」の座禅とは対蹠的である。しかし、我が内なる自己(仏)との出逢いを求めてのさすらいであることに変わりはない。  蟻の熊野詣に因んで、「アリの会」と名づけた我々の集いは、歩く「行」による、この出逢いを信じて、ひたすら歩む。ただ歩む。


熊野古道を往く(多田学氏撮影)


熊野古道にて(多田学氏撮影)

 




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