「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ‥‥」と、かつての教育勅語は教えました。
一昔前の、あるべき家族関係、人間関係の金科玉条で、私どもは畏(かしこ)んで拝し、その履修につとめたのであります。
かつての駐日大使で詩人でもあった、ポール・クローデルは、一九四三年秋、日本の敗色が次第に濃くなりつゝあった時、詩人ポール・ヴァレリーに次の内容の書翰を送っています。
「私は決して滅されないようにと願うひとつの民族、それは日本民族だ。あのような極めて深い古い文明は、決してなくなってはならない。日本人以上に驚異的な発展にふさわしい民族は、ほかにはいない。日本人達は人口は多いものの、貧しくとも高貴である。」と記しています。
教育勅語のもたらした教育効果の一部分が垣間見られる思いがします。しかもそこには、或る種の貧しさという「スパイス」が、その味わいを一層引き立たせたように思われます。
もっとも、敗戦直後の極端な貧困は、とても味わいを引き立てゝくれる調味料ではなく、心を陋劣にする毒物でさえありました。
「衣食足りて礼節を知る」… 食べることができたら、このうとましい、いぎたない思いから脱け出すことができるに違いない、とどれほど「豊かさ」を願ったことか。
幸いにして戦後十年余にして、もはや「戦後」ではなくなり、大阪萬博、東京オリンピックには、豊かさの炬火(たいまつ)が燃えさかったのであります。
たゞ、現代の社会構造といえば、農山村の疲弊、地方都市の人口減少、それに拍車をかける少子化は、「国敗れて山河あり」の、山河さえ荒廃せしめるという、時代の流れにのみ込まれつゝあります。
挙句、家の喪失を招きました。家長制はなくなり、大家族は核家族へ、世界有数の長寿老人たちは多く施設へ移り住むことゝなりました。
かつては、炉には主人の座る横座があり、西欧のマントルピースの高さは、主人の肱(ひじ)の高さに依りました。石油ストーブに定位
置はなく、エアコンは、主人の場とは無縁であります。 さて、そこで出版されたのが、かつての、NHK婦人トップアナウンサー、下重曉子氏著すところの「家族という病」であります。
所詮、かつての家族制度、一家団欒といった家族絵図は、もはや現代という額縁に収まり切らない、という事実を、鋭いメスでえぐり出していく、下重氏の筆致は、「家族」という言葉にひそむ、「甘え」と「うそ」を指弾しているように見えます。
彼女のメスは、自立心と非情の火炎を通して研ぎすまされていて、団欒とか、良い家族関係と稱しているものの裏にひそむ嘘をあばき出し、過剰な甘えによるニート、親子の冷(すさ)まじい暴力沙汰、牙をむく欲望による遺産争い、等々、見事な刀さばきを見せます。
要は、家を支える基盤になっているものの、時代の変移を率直にみつめるところから、あるべき家族関係を見出さねばなりません。そうした背景の下に、下重氏は悪びれぬ
率直さで御自身の家族の素顔も引き合いにして、各人に自立した家族観を培うことを勸めたのが本書の生れた所以でありましょう。
但、下重氏の特異な点は、NHKアナウンサーという、嘱目すべき職域にあり、又結婚では、子は生まないと決められていることであります。
その立場や考え故、というわけでもないとは思いますが、少し依故地に思われる節も認められます。
父君は、幼年学校、士官学校出身のエリート軍人で、戦後は失職、時に戦前、世話をしたことのある画家の勧誘で、元来画家の道に進みたかった画才に富む父君は、密かに春画を描いていたことを下重氏は赤裸々に述べ、そのことに眉をひそめています。併しあの敗戦後の苛酷劣悪な環境の下、碌を離れた武士の商法が通
ずるはずもなく、しかも唯一人なら高楊子をきめこむこともできたでありましょうが、一家の主人として家計を負うべく何ができたでありましょう。
同時に敗戦前の考え方が父君の頭脳によりを戻しつゝあることに嫌悪感を述べておられますが、冒頭の教育勅語の一節など、個々の言句に関してみれば、ことごとく否定するべきものとも思われません。
更に話題は変りますが、十年程前、イタリアの豪華客船が座礁擱坐、二年前には韓国客船の沈没、これらの際の船長のとった態度と、過日苫小牧に向かう我がカー・フェリー坂上幹郎船長の進退を比較すると、後者では、乗客・乗員下船後も、一時間半にわたり、船内の捜索や船の安全碓保に当り、海上保安庁の説得によって、漸く巡視艇に身を移したのであります。
それぞれの事故の事情が違うとはいえ、我らが船長は、立派に「ザ・ラストマン」の行動を示してくれたのであります。
それはとりもなおさず「貧しいが気品のある民族」の魂であり、父君が戦後その一部たりとも回帰を望まれたであろう「士魂」であったと思われます。
更に加えて申しますならば、T家族という病Uという言葉は、T肺炎という病Uというような通
有性がないことは申すまでもありません。充足円満の家族・家庭が皆無ではないからであります。したがって、家族写
真入りの年賀状を「幸せの押し売り」などとけなさず、快く同慶の念をもって受け入れてあげてほしいと思います。
ともあれ、茄子の花にたとえて、一つとして無駄はありはせぬと教え、また冷や酒を呑んだ時のように後から利き目が表われる、といわれた親の意見も無力と化した昨今、夫々が豊かさに浸り切った甘えを排して自律性を保ちつゝも、なお且つ家族の暖もりを忘れぬ
ためへの道筋を、「現代のノラ」下重曉子氏は示唆しているように思われます。
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