陸軍士官学校が条例として発足したのは明治七年で、旧尾張潘邸に校舎が完成して正式に開校されたのは、明治十一年六月十日のことであります。
爾来、江田島の海軍兵学校と並んで、陸海軍将校が輩出される門となったことは云うまでもありません。特に太平洋戦争に臨んでは、旧制中学生の多くは、何れは将来兵役に就かねばならぬ運命を見越して、当該学校を受験するものが陸続として続いたものであります。
その受験で特に印象深かったのは、海兵の受験で、毎日一教科づつの試験が行なわれ、当日後刻、掲示された告示の紙の中から不合格者の受験番号が消されてゆくという方法がとられたことでした。
ともあれ、私もその双方を受験しましたが、結局は、当時の埼玉県北足立郡朝霞町にあった陸士≠ノ入校したのは、終戦の年、二月八日のことでありました。
爾来、皇国教育を徹底的に叩き込まれたものであります。就中、その国史教育に当ったのは、東大、平泉澄門下と思われる教官で授業に臨んでは、先ず教程(教科書)を両の手にとって一礼した後、開口に至るまでの姿勢所作には一分の隙もないものがあり、その烈しい気迫には、若者の心を打つものがありました。
大日本ハ神国ナリ≠ナ始まる当の教科書は、最後部に七十余の設問が設けられていて、個々の歴史上の事柄や事件についての問題が記されていましたが、その最後は大東亜戦争必勝ノ理由ヲ挙ゲヨ≠ナありました。
気鋭、実直の当の教官は終戦に臨んで自死しました。今以て、その潔(いさぎよい) 風格には魅力を覚えます。
また当時、指導の武官から最初に聞かされたのは、「金銭は阿賭物である」という聞き馴れぬ言葉でありました。阿賭物とは、金銭を蔑視した中国の故事に由来する言語とのことで、先ずは武士は喰わねど高楊枝の中国版でありましょうか。
その他、「狂忠」「恋(れん)闕(けつ)(闕は宮城の意)」といった言葉も頗る印象的でありました。
ところがそうした中で、少し風変りな数学の教官がいて、武人とは無縁の、強いていえば、下世話に通じた物柔かな語り口が、武骨張った空気一辺倒の中で、一寸した春風を呼ぶ風情がありました。
さて、或る日、当教官は全く予期もせぬ発言をしたのであります。
「一昨年、天皇陛下(こゝで一同は坐椅子で一斉に威儀を正したに違いありません)が本校へ行幸されたが、そのお顔は頗る元気がなく、やつれておられた…」と。
一瞬、いわれもない発言に、驚愕のしじまが室内に充満しました。云ってはならない、告げてはならぬ発言でありました。しかし、文官とはいえ教授として上司でありますから、誰一人異を唱えるようなことはなく、のみならず、全く虚をつかれた、思いの中に、この教官は勇気をもって真実を語っている、という思いが兆(きざ)し、より親しみを覚えたものであります。当時
畏くも大元帥陛下には、愛馬白雪を召され、天機殊の外麗(うるわ)しく…
が、新聞記事の常套句であったにも拘わらず、教官云うところの天機に陰さしていた所以は、いうまでもなく戦況の不如意に
よって御宸襟(しんきん)(大御心)を悩ましておられる、という理解だけはできました。
ところで、陛下の陸士への当の御来校は「陸軍士官学校」(ノーベル社刊)によれぱ、昭和十八年十二月九日のことであり、例の大詔奉戴日(日米開戦の日)の翌日を期してのことであります。当書には、白雪に騎乗された昭和天皇の後に、当時、陸軍では三長官と併称された東条首相(陸相)、山田乙三(教育総監)、杉山元(参謀総長)らの三人の大将が轡(くつわ)を並べて附き隨っています。
最近、入手した「入江相政日記」を見ると、当日の記録は記載されておりません。但、昭和十八年三月三十日の日記に「午前、内大臣御召拝謁」とあり、それに附された註解(木戸幸一日記)によれば、此の日、天皇、木戸の間には、戦争の前途甚だ憂慮すべきものがある会話がなされ、木戸内大臣も爾後、御宸襟の程の如何あるかを知って、和平問題を自由に話題とするようになった、といゝます。
したがって、その九ケ月後の陸士来校の日の玉顔の陰りは容易に理解できるところであります。併し、入江日記を観る限り、天皇の日常側近の立場であったにも拘らず、その御心中の程を理解していなかったような読後感があります。元よりそれは入江氏の無理解ではなく、天皇お孤りが深く心中に秘めて口外されなかった故でありましょう。
思えば、「現人神(あらひとかみ)」として、天皇信仰に支えられて、「神洲不滅」「皇国必勝」の言辞の渦巻く中、自らの思いを、侍従にとて洩らされる機会はつゆなかったのでありましょう。
時を経て「象徴」として位置づけられ、多くの国民の敬愛の対象となっておられる平成の天皇は、最近に至って燉の苦衷を国民に訴えられました。特に、その儀典や祭礼に関してのことでありましょう。私も間違うことがあります≠ニいうお言葉ほど、卒直明快なお言葉はなかったように思われます。
現状は、日を籍すに余裕のある事態ではないように思われます。有識者会議での三つの意見はそれぞれに理由がありましょうが、併せて御内意のある処と調整して、逸早く結論を急ぐべき事態ではありますまいか。
この矢は何処より来りしか、と論ずる前に、取りあえず矢を抜くべし、とは仏典の教えるところではないでしょうか。
ともあれ、国士ともいうべき風格を持し、敗戦と共に自死した日本史の教官、一方、真率で勇気ある発言をした数学の教官、このお二人のことが今も生き生きと偲ばれます。
|
昭和天皇陸士行幸(ノーベル社刊「陸軍士官学校」より) |
|