一、「なんであんなこと云うたんやろ、思うて」という答弁で、議会委員会を爆笑の渦に巻き込んだ、しお爺イこと塩川正十郎氏の一幕は、周知のところでありますが、氏は、後刻胃腸を病み、その機能の何分かを失うに及んで実行したのが、当の「一著毎に箸を置くべし」であります。
なるほど、箸で以て一口運んだ後、箸を手にしていると、すぐ眼移りならぬ箸移りがして、時をおくこともなく二番手の食物に手がゆき、自動的に口に運ぶことになるとは、御案内のとおりであります。
ひとたび、箸をおけば、咀嚼に余裕ができます。そして納得できるまで咀嚼し喉元へと運びます。
母乳が他のあらゆる人工乳にも優る滋味を備えている、といわれるごとく、唾液こそ、あらゆる、謂う所のサプリメントに優るものに違いありません。この自然良能を十全に用いるよう咀嚼の機能が天与のものとして与えられているのであります。
私の友人は、三十回どころか、百回噛むと申します。何とヒマな…。ともあれ皆さんカム、カム、エブリボディと心掛けましょう。
二、呼吸法については、私も若い頃から相応の関心を持ちつづけて参りました。平成二十一年からは、市中で「靜坐の会」を毎月催し、八年間続けて参りました。
岡田虎二郎氏の創めた岡田式靜坐法に據るもので、近来では、元日銀副総裁、初代日航社長柳田誠二郎氏がその実践者として著名であります。
岡田先生の言葉をこゝに抜萃します。
満身の力をこめての一呼吸一呼吸は、肉体を彫刻していく鑿(のみ)だ。
体の直線がきまれば、心の垂直線もきまって泰然たる靜寂も、不断の胆力もこれから生れる。
嫉妬、憎悪、憤怒、野心、疑心その他の悪徳がおこる時は、丹田の力が抜けている。
絶対絶命の場こそ靜坐の好機
等々がその語録の一半であります。
私は身勝手に、一方、真言僧、藤田霊斉師の創めた調和道呼吸法にも関心をもっていて、その方の会(日野原重明会長)にも参加させてもらって、自分に適った呼吸法を模索実践しております。
何れにしても呼主吸従(吐くことが重要、吸う方は自然に任せる)、丹田呼吸が要諦で、更には、私が呼吸しているのではない、阿弥陀さんが私の体を借りて呼吸しておられるのだ。腹話術の人形のような私を意識して、更なる深まりを求めています。
三、私の幼稚園以来の友人(故人)は、因幡電機産業に連なる因幡電機社長をしておりましたが、当人の御尊父の回忌法要に臨んで回顧誌が発刊され、私にも幼時を偲ぶ回顧談の依頼がありました。
その數多い憶い出の中に、若い者がとかく酒に泥酔し、宿酔に悩むさまを憂えて、当のお父さんが諭したこの言葉が引用されておりました。
とかく、酒を噛むなどは不可能なことですが、この思いで味わえば、深酒は慎むことができる、という含蓄のある教訓に他なりません。
とかく喉元すぎるビールの感触に溺れることなく、一寸口内で咀嚼してはいかがでしょうか。それでは本当の味が…と反畳が入りそうですが、要は噛み味わう心掛けこそが大切なので。
四は、云うにや及ぶというところでありましょう。
山岡鉄舟が、剣の道では長年その驥尾(きび)に付していた、小浜出身の剣豪、浅利又七郎を凌ぐべく、三島の龍澤寺へも参禅すること十七年、漸く明治十七年三月三十日払暁、対恃した浅利が剣を捨てるに至った開眼の境地を
古人の云うところいささかも偽なし
と述べています。
とかく、貪、愼、痴三毒に悩まされる我々の心を、古賢の教え、哲人の導きに隨って磨いて参りたいものであります。
しめくくりとして、「咬む」ことと「噛む」ことの相違について、長迫(ながさこ)紘東京女子医大名誉教授より、次の示唆をいたゞきました。
猿と人の違いの色々ある中で、その一つは咀む力で、猿では側頭筋が頭のてっぺんまで広い範囲で頭蓋骨にくっついていて、強い力で顎を引っ張って力強く咬む。これに対して、人は頭脳が大きくなったため、側頭筋は頭蓋骨の横にとゞまり、噛む力は弱くなっている。すなわち、人は喧嘩に弱いが知恵は大きい。
したがって、その分、人間は知恵を出して、よく噛むことが必要である。との生理学上の説明をいたゞきました。
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昭和天皇陸士行幸(ノーベル社刊「陸軍士官学校」より) |
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