(以下の文は、昨年六月二十四日、西国第22番総持寺で開催された「第四回巡礼遍路研究会」で発表したものの速記録であり
ます。したがって“です”“ます”調の話し言葉でなく生硬なものとなったことを御諒承下さい)
徒歩巡礼は六十歳から思い立ち、西国は五周歩いた。昔は江戸の人は三十三番谷汲山をお参りしたら中山道を歩いて善光寺に行き、江戸へ帰るというのが習わしだった。それに倣って谷汲山から善光寺まで二百八十キロ歩いた。そこでわかったことは、私のところ(西国二十九番松尾寺)の本尊馬頭観音がまれなものだと思っていたのが、中山道沿いに馬頭観音の石碑が随分あるということだった。木曽馬が生活基盤になっている故ということも、歩いてみてはじめて理解できることである。
ところで、我々の生存は食物連鎖の上に成り立っている。その一番上にある万物の霊長である我々が、発達した脳を持ち、素晴らしい芸術、科学というものを産んでいるということはご存じの通り。
一方、全人類を滅亡させる核爆弾をもつ、という愚かな現実も認めざるを得ない。この不条理な存在として、自己に対面する時、求められる一つの姿が感謝と懺悔の巡礼の旅であると私は思う。
かつて俳人・荻原井泉水は、巡礼についてこう述べている。
此の十年の間、私は社会的にも家庭的にも苦しい闘いをつづけてきた。非力にして無能なる私と病弱な妻とは、世間という強い風に弄ばれる小さな舟のようであった。‥‥その妻がなくなり、私の母がなくなり、子供はその前になくなっていたので、つまり私の家庭というものが全くなくなると共に、世間的に得なければならぬと考えていた凡(すべ)てのものが悉く無用のものとなり、私は孤独の身となって京都にきたのである。それは仏門に入りたいという念願からであった‥‥
彼が巡礼というものに自らの生きがいを求めようとした気持ちをここには素直に述べている。
巡礼の旅は時間を限って馳(かけ)廻るべきものではない。まして人と先を争うべきものではない。ただ縁に随(したが)い脚
(あし)に任せて、寺を尋ね仏に逢うという事を喜びとすべきである。‥‥今日では、汽車汽船という便利な物が出来た為に、乗後(おく)れやせぬかと心配したり、時間が悪いと不条理な腹を立てたりする。人の心が利口になった為に、いや巧に物を利しようとするが為に、心の静かさを失い、遂には己を失うのだ。‥‥旅にある時ばかりではない。私達の日常平生(へいじょう)がやはり是(これ)と似ている。人に勝とう、人に先んじよう。何かを得ようという気持ちで一ぱいになっている。
行雲流水の本当の気持ちとは、まさにこの歩く旅の巡礼において自らを見つめ、世間の絆から外れたところに真の生きざまがあると荻原井泉水は述べている。
私は実は歩き巡礼というものは、いわば古道を発掘することによって、そこに先人の歩んだところの血と汗の結晶を掘り起し、この信仰の道を歩むところに多くの出会いがあると思う。そういう期待を持って歩いたのが、平成元年のことだった。
一番那智山から二番へ二百キロ。熊野古道を歩き、田辺に出て、北を目指して紀三井寺へ。六日半で歩いた。当時は世界遺産になる前で、歩く人とてなく、先達が道をふさぐ竹やぶや草木を切りながら前へ進んだ。残念なことに今、一部古い道を自動車が通れるように舗装している。これは歴史を窒息させるもの、汗の結晶を拭い去るもの。私は行政のこの姿勢は如何なものかと思う。
歩く巡礼は、自動車の旅と比べてさまざまな出会いがある。山岳宗教の権威であった五来重先生が次のように言っている。
われわれは常識的に宗教は神社や教会にあると思いがちである。しかしこれは生きた宗教の固定化、形式であって、宗教の社会化のためにやむをえないプロセスであったが、固定化した宗教に生命を甦(よみがえら)させるためには、「歩く宗教」に立ち戻る必要がある。宗教はつねに原始回帰によって、生命力を新たにする。生命力の新たな宗教こそ「あらたか」な宗教である。‥‥宗教のほんとうの生命は、祖師や教典を突き貫けて、原始に帰ることだとおもう。一遍の遊行は原始回帰の進行であったが、後継者はそれをつづけることができなかった。そして彫刻をのこした円空や木喰行道などが、かえってこれを実践したのである。
歩く宗教、歩く巡礼を、五来先生は忌憚なく評価していると思う。
私も歩く巡礼こそ巡礼の真骨頂であると思う。右の足は鍬、左の脚は鋤だ。この鍬と鋤で「心田(しんでん)」つまり心の田を耕すんだと考えている。
一歩歩いて心の中に一歩の仏を刻む。二歩歩いて二歩の仏を刻む。禅の言葉に「一寸坐れば一寸の仏。二寸坐れば二寸の仏」というのがあるが、一歩歩いて一歩の仏を刻み、一日三万歩の歩みでは三万歩の仏をわが心の中に彫り出し、その仏と出会う。そこに本当の喜びがあると思って歩き続けた。
四国にお参りに行った時に興味深い石碑に出会った。五番の庭にあった「百薬に勝る遍路に出いでにけり」。また途中の道で「金とひま 使いて歩む 遍路道 この疲れ この痛み ありがたきかな」。いずれも感動した次第。歩くことによってこそ、さまざまな出会いが生まれる。
グループで一緒に歩いた人の中に、七十歳代半ばの旧軍隊の看護婦さんが二人参加していて、「大陸での若い兵士の魂を慰めたい」というのがその動機であった。熊野の山中で極度に疲労した一人の七十五歳の看護婦さんは、同伴の強健者がその手に握らせて引っ張ってもらった縄を、死出の旅路の用意としている白衣の襟に縫い付けることとなった。
また、文化、歴史との出会いがある。八番長谷寺を出て九番興福寺までの歩いての巡礼。朝は元気でも午(ひる)下り極度の疲労の中で道端の石碑が眼に入った。
「くたびれて 宿かる此(ころ)や 藤の花」(芭蕉)
歩いていてこその出会い。机上で読んでいるのではわからない出会いがそこにはある。
また、歩行が健康にはよいのはいうまでもないが、英語の諺にも「空腹は最高のソースである」といい、またヒポクラテスは、「人間は自然から遠ざかるほど病に近づく」といっている。以上のように我々は歩くことでいろんな功徳がいただける。
ところで、爾来千三百年を迎えるという、徳道上人の西国巡礼嚆矢(こうし)にまつわる噺は、冥界に至った上人が閻魔大王から、今一度現世に戻って、三十三観音霊場巡りを命ぜられた、という説に由来する。
このことは単なる無稽の話ではなく、巡礼とは、ひとたびの擬死による罪障消滅になぞらえて、今一度新人生を開拓する、回生への訓えを示唆しているといえよう。即ち、巡礼者の身にまとう衣裳は、死出の旅姿であり、昔、手に携えた「往来手形」には、道中不慮の事があれば、その地のしきたりによって葬送されるに異議なしと誓い、手にする杖は墓標となった。
その満願に臨んでは、笈摺を脱ぎ収めて元の生活に復帰する、いわば脱皮、回生を迎えるためのものであって、巡礼道中を胎内くぐりになぞらえる所以である。
いっぽう、古来三度の巡礼が勧められたのは、父・母・衆生の往生菩提を祈るためのものであった。ここには、現代の家族
像に照らして、深い教訓が認められよう。 |