二人の軍人の戦後の三十年間

 宮野澄著「最後の海軍大将、井上成美」が、文芸春秋社から出版されたのは、今から三十年前のことで、たまたま一読して感動、沢山購入して知人に配付したものです。
 第二次大戦中、海軍内の反戦派の代表は米内光政、山本五十六、そして井上の三提督であり、特に井上は敗戦後は、戦争を抑止できなかった咎(とが)を一身に負うたが如く、職に就くことなく逼迫、窮乏の生活に甘んじて余生を終えています。
 その人間性を示す一例として、次のエピソードが語られています。
 彼が海軍兵学校校長の時、友人が同校の図書室に「宮本武蔵」と「太閤記」を備えつけることを勧めたところ、後者を拒否しています。理由は、秀吉は立身出世主義で、出世のためには手段を選ばぬところがあった。兵学校の人間教育にふさわしくない、ということでありました。
 名利を顧みず、人間性の高まりを重視した彼の教育理念は、次の講話の要旨にも明らかであります。
 「…海軍将校トシテ自己ノ進級ノコトヲ考ヘサセ、自己ノ立身出世ヲ念トセシムル如キコトヲ善キコトトハ考ヘ居ラズ、大将迄進マンモ少佐位ニテ現役ヲ退カンモ、ソハ其ノ人々ノ能力ニ応ジテ全力ヲ海軍ニ於ケル御奉公ニ捧ゲタルモノニシテ、夫々ノ職分ヲ尽シタル何レモ立派ナ御奉公タルガ故、官階ノ上下ヲ以テ一慨ニ人間ノ価値ヲ評価セン等ノ考ハ毛頭ナシ…」
 と述べています。
 ただ、孤高の人は、一面まま、狷介(けんかい)な面も併せもつ弊があります。
 彼は海兵の生徒に、陸軍士官学校生徒との文通を禁じています。その理由は、陸軍は陸軍第一、日本国第二になって了っている。海軍は国家第一、国家あっての海軍と考えている、というのでありますが、この文通禁止の一件には、一抹の違和感を禁じ得ません。
 ただ、日米開戦に至るまでの経緯には、私どもの知る由もない凄まじい陸海軍抗争があり、挙句海軍の和平論者の放逐となり、一気に戦争に突っ走った、という経緯については、米内、井上両者のみより知らない隠れた史実があったようで、それらを窺い知ることのできない立場で、一方的に井上の非をあげつらうことは謹むべきでありましょう。
 ともあれ、彼は敗戦後は冒頭述べた如く窮乏の生活に甘んじたのであります。ために共に暮していた、戦争未亡人でもあった一人娘?(せい)子を、昭和二十三年六月に、栄養もまゝならず、治療も意に任せぬまゝその生涯を見送らねばなりませんでした。
 挙句、小学二年生の孫研一は、?子の婚家先に引き取ってもらうこととなり、その別れに臨んでバス停まで見送る井上の、研一に与えることができたのは、井上手造りのズックのかばん一つのみでありました。
 その一徹さを貫く彼にとって、旧将官が社会に復帰して、時に晴れの会合の場で乾盃の音頭をとった、という話などを耳にすると、“恥知らず奴が”と激怒したといゝます。
 また彼は、毎年八月十五日には、終日端坐瞑想して断食しています。昭和二十八年六月、彼は胃潰瘍による大吐血をして意識を失ない、七十五日間の入院を余儀なくされるのでありますが、彼の徳望を慕う、かつての海兵出身者が挙げて献血、療養の一切の世話をしたのであります。 
 昭和五十年十二月十五日、井上は八十五才にして、その人生を終えています。当書を改めて通読して、更なる感動を覚えたものであります。
 この陵々たる気骨と比肩するのは、ルバング島で三十年にわたる孤壘を守り抜いた小野田寛郎元陸軍少尉でありましょう。
 彼が降伏の意志を示すべく軍刀を手渡した行動に応(こた)えて、フィリピン軍司令官は軍刀を返し「軍隊に於ける忠誠の見本」と評し、マルコス大統領も、そのマラカニアン宮殿での投降式に臨んで、「立派な軍人」と稱えています。
 帰国後、彼は某誌に次の意見を寄せています。
 私は幸か不幸か生きて祖国に帰れた。そのため貧乏だった日本が金持ちになったのをこの眼で見ることが出来た。良かったと思ったが、旬日を経ずしてその思いは消えた。田中角栄首相以下閣僚がお見舞金として金一封を検査入院中の私に届けられた時、記者団の「何に使うか」の質問に「国が護持していないと聞いているので靖国神社にお納めいたします」と答えたが、その発言は一部から「軍国主義復活に加担するもの」「軍国主義の亡霊現れる」等と批判された。余談にわたるが、私の帰還に際し全国から頂いた有難い好意のお金は閣僚からのも加えて総て奉納させていただいた。それは靖国の神々に対するいささかの届け物であったが、それを批判し、またそれを許している。そんな国になり果てているとは想像もしていなかった。
 幻滅の悲哀ではない。「裏切られた」とさえ感じた。‥‥
 というのであります。勿論、戦後の世代には、「靖国」に対する思いに、小野田さんと何分の懸隔のあることは已むを得ないこととして、それにも拘わらず、三十年間、草を褥(しとね)とし、木陰に雨風を避け、食うや食わず、飲むことも不如意の、想像を絶する生活の中で、只管(ひたすら)国家を思いつづけた中に、釀生された愛国の胸中に由来するものを考える時、小野田さんの“裏切られた”と歯噛みする思いも察するに難くありません。
 爾後、半年にしてブラジル転居を志した胸中や如何に。平成二十六年一月十六日の彼の死去を報じたニューヨーク・タイムズは「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」と記しています。 
 戦後三十年間にわたって、限りなく重い戦争の負荷に堪えながら、生き抜いた二人の清洌な志を偲ぶ時、戦後七十年に及ぶ我々の精神密度に何分の感懐を覚えるものがあります。




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