瞑想と合掌

  腹が立ったら 立ったまゝ
   悲しかったら 泣いたまゝ
  そっとこの手を合わせましょう

 上の句はどこで耳にしたのか、記憶が定かでありませんが、素直に受け容れることのできる警句でありましょう。
 総じて合掌の姿は謹しみ深く、神秘な姿であります。猟師が、銃を構えた時、子猿を抱いた親猿が、両手を合わせたというまことしやかな話もあります。
 他でもありません。タイの洞窟に遭難した少年達が、ライトの中にその姿を表わした時、合掌して応える姿に或る種の感動を覚えました。
 仏教国というお国柄で、一般に慣習化された儀礼ではありますが、危急存亡の最中、九日ぶりで発見された時の合掌には、風習というだけでは割り切れない、感謝と歓喜の全てが示されておりました。
 単に手を振って応えるのとは大きな違いでありましょう。
 また彼等を率いるコーチの人柄も頼母しく、数年の僧堂の行も積んだ彼は、少年達に瞑想を指導したと申します。
 暗黒の奈落の淵に、いつ訪れるとも知れぬ死線に立たされ、僅かな食料と、岩からしみ出る水に渇を癒す少年達は、空腹、渇き、死の恐怖にさいなまれる時々刻々を焦慮と絶望の中に生きつゞけたに違いありません。
 時に、食料は、自ら先んじてとることなく、少年達に少量づつ攝ることを指導し、併せて精神面では瞑想行を教えたコーチの姿は、感嘆の他ありません。

 「動中の工夫は靜中の工夫に勝ること百千億倍」
とは、白隠禅師の箴言(しんげん)でありますが、暗黒の闇に閉され、出るあてもない深奥の淵での文字通りの絶望乱の中で、「」を保つため、十二人の少年の前に、瞑想の偉容を示したことは、彼等に生きる希望とその據り処を与えたことでありましょう。コーチの瞑想は、正しく「動中の靜」に他ならなかったのであります。




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