働と休

 働き方改革法案が、このたびの国会では大きな課題となり、与野党攻防の一幕となったことは御承知の通りであります。
 働くとは、人が動くことと読みとれます。人間は狩猟時代、獲物を追って激しく動かねばなりませんでした。敏捷さも不可欠であったことでしょう。
 如実に、働くことは食べることと直結していて、日常生活では、それが最大の課題でありました。学校(スクール)という英語の原語がギリシャ語のスコーレ(閑暇)に由来するのと表裏一体の現実であります。 
 ともあれ、原初、人は餌物を得ることに日夜奔命に働きつづけたのであります。それでも、飢餓を避けることはできなかったので、人間の肉体は飢餓に備えて、栄養を余分に備蓄できる構造になっています。
 しかし、人類の歴史の中で、この近代のほんの僅かな期間、そしてその一部とはいえ、相当の人口が、食物を充分与えられることとなり、いきおい、栄養備蓄の身体構造が、皮肉にも栄養過剰をひき起すことになりました。
 一方、食文化は百花繚(りょう)乱、眼を掩うばかり。あゝすればおいしい、こうすれば旨い、こんな食材が、こんな食欲をそゝるものが、とTV番組の相当パーセントが、この種番組で埋められています。
 腹八分目が、いや七分目が、時によったら六分目が、健康への道と教える番組があるでしょうか。
 江戸中期の著名な骨相見、水野南北は、その看定の誤ちを悔いて、風呂場の三助五年、床屋五年、墓守五年、それぞれ体形を見、面相、頭のたゝずまいを観、挙句死体をつぶさに観察した後、その道の奥儀に達したといゝます。そして、その結論は、人の健康は食にあり、それも腹八分目を以て最善とする、ということでありました。(別掲は、水野南北の著書からの抜粋要約であります)
 ともあれ、人間が動くことが働くことであれば、一方「休む」ことがあります。この字は、木に人の添ったさまを示していま
す。
 ところで、この樹木と人間の関係は、先に当紙89号でも記載したところでありますが、こゝに要旨を再録いたします。
 松岡正剛氏は、その著「空海の夢」の「呼吸の生物学」という一章に、次のように述べています。
 「『水辺の一本の葦から、瞑想する哲人にいたるまで、あらゆる地球上の生命が光合成と呼吸というふたつの科学的奇蹟によって成立していることは感動的である』と生物学者のルネ・デュポスは述べた。
 この言葉にもうひとつ感動を加えるなら、それは葦における緑の血クロロフィルと哲人における赤い血ヘモグロビンの分子構造が全く同一だという点だ。たゞ両者は亀の子型の分子構造の中央を、葦ではマグネシウムが哲人では鉄が占めている点では異なっていた。その相違が葦と哲人における呼吸言語活動の有無を分ける。」。
と述べています。
 ところで、酸素と二酸化炭素をめぐる、動植物の相即不離の関係は、両者が分裂する以前の第三の生命があって、それに由来するものである、とすれば、緑の血(植物) と赤い血(動物)の分子構造が同一であることや、相互に扶助し合う符合も、更には、人間が緑色に最も安らぎを得るという事実も容易に首肯できる事柄で、この動植物分離以前の第三の生命の解明については、最近の日経新聞のサイエンス欄に記載されていました。
 動植物に分裂する以前の生命体の更なる解明が望まれます。
 ともあれ、パスカルは「人間は考える葦である」といゝましたが、これは、葦の如く人間はか弱い、もろい存在ではあるが、考えることによって強靱な存在になる、というのでありましょうが、その実、葦の存在によって考えることも可能になる、とみることもできるでありましょう。
 ひるがえって、かのタイの洞窟には、倚るべき大樹がなかったとはいえ、子供達の不安焦慮の坩鍋の最中、端坐するコーチの姿こそは、少年達の倚るべき大樹であり、又文字通り、心に「休らぎ」を与えるものでありました。

獨坐大雄峰(碧巌録)


 




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