一本の鍼( 一片の仏心)

 これは、今から五十年も前のこと、ラヂオを通じて耳にした、詩人竹内てるよさんの話です。
 彼女は結婚後、一子を儲けましたが、日ならずして脊椎カリエスを病む身となりました。当時のこととて、子供への感染を怖れた婚家では、彼女を実家に帰らせ、挙句離婚沙汰となったのでした。
 担荷に載せられて、実家へ帰る車に担ぎ込まれた時折しも降りしきる雪の、頬をうつわびしさは彼女の胸をえぐる思いでありました。
 その後、奇蹟的に回復した彼女が、心中に期するのは、息子との出逢いでありました。併しその機会は容易に訪れることもなく、空しく日を過すのみでしたが、はしなくも、その待ちに待った日が訪れたのであります。しかし、それは想像することもなかった、鉄格子を隔てゝの面会となったのでした。
 出所後、当の息子を引取り、同じ屋根に暮す日を送れたのですが、それも束の間、息子は病魔に犯されて不帰の人となるのでした。
 竹内さんは述べています。
 人生に幸せは一つあればよい
 健康なら健康、これ一つで充分です

 かねてごく最近のTVでの話題です。例の林家喜久蔵さんが、自らの癌体験を述べていました。既にかつての胃癌で、胃の何分かを切除している氏に、今度は喉頭癌が襲ってきました。喋舌れぬということは、申すまでもなく、噺家の社会的生命を奪うものです。幸い放射線治療で、癌は癒ったものゝ、声が出ない。担当医によれば、声が出る出ないは神のみぞ知る、との説明をうけている状態の中で、半年程後に、思いがけない転機が訪れたのであります。
 同じく噺家でもある息子さんの、或る日の「おはようさん」の言葉に、「おはよう」と応えることができた歓びの一瞬です。見事、噺家喜久蔵復活の一瞬でありました。
 家族の間柄でも、とかくの事が起って、日常茶飯の「おはよう」だに事欠く自らのありようを顧みるとき、
 「おはよう」は唯の挨拶ではないのだ。 これは、自らの「いのち」の確認と、いとおしみの言葉である。「おはよう」の発言に満腔の感謝があって然るべきである。
 と感動したものです。この「おはよう」こそ一つの幸せを象徴するものではないでしょうか。
 ところが、一般には、健康ならば健康で、その感謝と善用を忘れて、とかく罪作りな日常に陥り勝ちです。仏教では十善戒を説きますが、とくに口から出る災いについては四つ(妄語、綺語、悪口、両舌)も説かれています。中でも嘘は、とかく馴染勝ちな悪業の一つで、これは今更、少年ワシントンが桜の木を伐って父親に詫びた美談を持ち出すまでもないことでしょう。
 子供の頃よく口にしたのが、「嘘ついたら針千本呑ーめ」でした。
 針千本は一寸過酷な仕打ちと思われぬでもありませんので、せめてもその中の一本が、懺悔(ざんげ)によって針ならぬ鍼(はり)に変ってくれることを願うものです。
 経典にも説かれています。沢山の商人が品物を満載した車を連ねて旅をしている処に盗賊が襲ってきます。
 商人の棟梁が奮い立って、「南無観世音」を稱えれば、必ずやこの危難を脱することができる、と叱咤激勵します。衆人ひとしくこれに倣(なら)い、危急を逃れたというのですが、諸々の盗賊(罪過)にまとわれた身とても、不断の念仏にその身は救われるというのでありましょう。針も念仏を通じて鍼に変る祈りを忘れますまい。
 たゞ一方では、巨額の富を積むことにのみ、幸せを求める向きもあります。
 これは、はしなくも或る会合で、私の述べた乾盃の挨拶です。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」と申しますが、此の頃
はTVを観ても、新聞を開いても、やたらと鐘の声が聞えています。ゴーン…ゴーン…。
 同じ鐘の音でも、フランスでは聞き取りようが少し違うようで
 ゴオン(御恩)…、ゴオン 
 と聞えて、日本人は恩知らず、といっている由‥‥
 以上が挨拶の一節ですが、まこと、人の欲望は限りないものです。
 昭和五十二年秋、薬師寺写経会に招ばれて、はからずも私が講師をつとめさせていたゞいた時、そのあと高田好胤管主が御挨拶された一節を、今も記憶しています。
 人の欲望を満足させようと思うと、ヒマラヤの山を金に換えて三つ重ねてもまだ足りない、とお釈迦様は云っておられるとのこと。
 幸せは身近かにあり 
 幸せは自分で作るもの


 




←前へ