乏しさの隠し味(節倹の勸め)

 かつて、高名なジャーナリストが、老いを重ねて、動けぬ奥さんの看護の疲労の果て、当人を殺す、という痛ましい事件が
ありました。詳しくは知りませんが、奥さんもより長い人生を送る意志も欲望も失なっていたように思われます。
 最近、更に痛ましい出来事が生まれました。暴力を振い、狂気に叫ぶ息子を、父の元高級官僚が、殺(あや)めるという事件であります。近辺に起った殺傷事件を真似て息子が同様の事態を起すことを危惧しての痛ましい事件でありました。
 何ともやり切れない事柄ですが、自らが当事者であることを仮定してみる時、たゞにこの父親を鞭打つことのできない複雑な思いに追いやられます。(橋下徹氏も文芸春秋誌で同情論を述べております)
 又、第三者と当事者では、その思い悩みに天地の隔りがあり、御当人は、恐らく底知れぬ悩みと不安、動揺と恐怖の中で知情意ともども絶対温度の凍りついたような静閑の中で、たゞ一つ殺人という行為が択ばれたのでありましょう。  
 警察官に伴われて歩む御当人の表情には、思考の限りをつくした苦斗の果ての、或る種の安らぎさえ認められました。
 「修身、斉家、治国、平天下」という言葉があります。いうまでもなく「修身、斉家」は家庭、「治国、平天下」は 国家社会の問題であります。ところが、治国平天下のエキスパートが、修身、斉家の範疇でその意を達することができなかったことが、社会の大きな関心を集めたのです。
 この修身、斉家が大変難しい課題となっている所以は何でありましょうか。
 かつて、我々の生活はもっと不便で、もっと貧しいものでありました。当寺でも大きな部屋で一つの大きな火鉢の炭火が唯一の暖房でありました。今や電気ヒーター、石油ストーブです。食事の面でも、豆腐が高級品として珍重されていました。寺へもらい風呂に来られる人もありました。いろいろ巨細に述べるまでもなく、現代は総じて豊かになっています。
 そして一部屋に集って火鉢に手をかざし、夏は床几に腰かけて団扇で涼をとりながらの語らいは、今や一変して、個室に自己の城をもち、語らいよりは、TV、スマホ…となりました。
 誤解を怖れずに云うならば、「乏しさの隠し味」とでもいったものが、生活の中に秘められている方が、心は通い合い、人は助け合う機縁が増すように思われます。
 名作TVドラマ「おしん」で、奉公に出される筏の上のおしんと、川辺をこけつまろびつ、おしんおしんと絶叫する父娘の呼び合いの中にこそ、真実の心の通い合いが認められるのであります。
 貧しさに反比例して、心の豊かさが深まるという一見矛盾した心理を顧みる時、「衣食足りて礼節を知る」とは、貧しい時の警句であり、多少とも豊かさになじんだ節には、「足るを知るは第一の富」を戒めとしたいと思います。
 名優、高倉健氏は、「日本もかなりいゝ所まできたのではないか」と述べ、ハワイ出身の大関・高見山は、電燈を無駄に灯して
いるのを見て、「日本を盗んでいる」と戒めたことも顧みられるのであります。
 ところで、修身斉家の徳行を勸める目標は何でしょうか。かつては二宮尊徳を理想像と仰いだ勤勉、努力、節倹の徳行がありました。社会教育としては、蓮沼門三氏率いる修養団の「流汗鍛練・同胞相愛」の勸めもありました。
 今や、アリとキリギリスの寓話は、変貌して、「アリギリス」を以てよしとする様態に移行しています。
 最近のAIを頂点とする、科学文明の改革は、労働時間の短縮、休日の増加、生活の向上等々、多くの幸せをもたらしてくれました。併しそのことが同時に、精神の深化につながらないところに課題が生れます。
 単的に、TVなどで親しまれているペットへの異常なまでの愛情傾斜と、高齢化する家庭内老人への対処の様相を比較する時、ふと心の疼きを覚えるものがあります。
 休暇もよし、生活の向上は更なり、しかしながら、「心の豊かさ」を絶えず忘れぬものでありたいと思います。
 その切り札は、やはり生きている、生かされている事への、知足と感謝の思い以外にはありません 。




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