兼ねて、前文に続いて、小学校の友人、西上君の思い出を綴ります。平成十九年冬、彼は逝ったのですが、私たちの西国徒歩巡礼の会(アリの会)にも心魅かれたのでしよう。西国一番より二番に向かう熊野路の一部ではありましたが、奥さんに伴われて歩行可能な箇所を同行してくれました。
弔 詞
通例なら厳しい寒さに悩まされる今日この頃、うって変った暖冬の中、よもやの貴方の逝去の悲しい報せに胸凍る思いです。
御互い、この年令に達すれば何日、何時、何があろうと不思議ではないと、日頃は思っていても、つい死は手の届かぬ遠いものという思いに流されています。しかし、現実は非情です。身近かな友人の死に今更の如く無常の理(ことわり)を思い知らされました。
君が今は故きT君と共に、私の山寺へ訪ねてくれたのは、私が此処で住まうようになってから程なくのことでした。既に少し眼を悪くしていたけれど、海抜七百米の厳しい青葉山に登頂して元気な姿を見せてくれていましたね。しかし、それから何年か後には、「失明」という苛酷な運命が君を待っていました。元来道を求め、神を訪ねる真摯な求道心を持ち合わせていた君は、肉眼を失なうことによって一層心の眼を研ぎすまし、その上、聖書を通じて、こよない看護師の伴侶を得ることができたのは、全く神の与えた幸せだったと思います。健常者とて、必ずしも幸せな結婚生活を送っておらない余多の例をみるにつけても一層その思いを深くするものです。
思い起せば、八尾に招ばれて駅の近くで御馳走になり、君の診療所でマッサージをして私の体のこりをほぐしてくれたことが思い出されます。
また、生来、私が生甲斐としている徒歩巡礼の旅にも奥さんに伴なわれて顔を出してくれましたね。奥さんの代筆による君の便りを引用します。
「紅葉深まる秋の熊野路をアリの会の皆さんと同行できまして有難うございました。
治療しながらお話できましたことが嬉しく、人情の機微に接して、小生なにか新しい世界が開けてきたように感じました」
として、次の三つの句が添えられていました。
山水のしたゝリ落ちる古路の秋
鈴の音のはるかに聞こゆ紅葉谷
熊野路の鈴響きくるしぐれかな
とあります。こゝには、水のしたゝりや、鈴の音に耳をすまして山路を体感する、君の鋭い感性が読みとれます。丁度今から十二年前の秋のことでした。
併し、当時行を共にしていたT君去り、次いでK君が逝き、今又、君の訃報に接して、惻々と迫る別離の悲しみは本当に胸迫る思いです。
けれども、君には強固な信仰がある。神に抱かれる幸せを今しも実現していることでしょう。
天に召される幸せを遙かに祈りつつ、私の弔詞とします。
西上君、どうかお幸せに
さようなら |