標記 静坐の集いを発会してから十周年を経ることになりました。
山折哲雄氏は、若い時、永平寺での講習会に参加して、坐禅の指導者から、「こんなきつい行はかなわぬ、もう二度と山へは上るまいと皆さんは思っているに違いない。けれども、五分間でよいから毎日坐禅をされるなら、必ず将来得るところがあろう」と云われ、爾来努力を重ねてきた、との談話を聴聞したことがあります。
顧みて、現代は静穏とは程遠い情報過多の時代であります。且つ又音量が極度に高まった時代でもあります。歌唱を例にとりましても、舞台を動きまわる動態に、つい嘗ての東海太郎が懐かしく思い出されるのであります。
同様、食べ物のTV番組もまことに盛り沢山でありますが、時に、小食の効用を説き、断食の効果も説くことがあってもよいのでは、と、老僧はひとり呟いています。
同様、静坐は情報断絶療法ともいったもので静寂の中に、本来の自己を掘り起すことへの試みとでもいえましょう。その型式は、岡田式静坐法に則り、大様次の通りであります。
1、足を深く重ねる(正坐のまゝで足を重ねて腰を立てます)
2、ひざの開け方、男性は握りこぶし二つ、女性は一つ。
3、両手を組み、お腹につけて股の上に置く。
4、顎を引き首をまっすぐ。
5、瞑目。
6、腰を立てゝ上半身の力を抜く。
注:足がしびれた時などは、適宜膝で立つ姿勢が許される。
大畧右の次第でありますが、岡田氏はその際の想念について次のように述べています。
無念無想になろうとか、精神統一とか、精神集中なんどは一切考えてはなりません。静坐をしながら、その目的や効能を論じたりするのは愚かなことである。
静坐それ自身が目的でなければならぬ。
といった言葉を残しているのでありますが、私は、あえて、新しい裘(かわごろも)に、古い酒を入れることを試みています。
それは白隠禅師の不朽の名著「夜船閑話(やせんかんな)」に述べているところであります。
参禅して道を窮めようと志し、精進辛苦することも、時に度を過ぎて心身枯渇の状態を招くことがある。萬一こうした事態を招いた場合に、適切な内観の法があるとして、次の如く述べています。
先ずすべからく熟睡一覚すべし。その未だ睡りにつかず、眼を合せざる以前に向って、長く両脚を展(の)べ、強く踏みそろえ、一身の元気をして臍下丹田、腰脚足心の間に充たしめ、時々に此の観を成すべし。
我が此の気海丹田、腰脚足心
総に是れ我が本来の面目
面目何の鼻孔かある
我が此の気海丹田
総に是れ我が唯心の浄土
浄土何の荘厳(しょうごん)かある
我が此の気海丹田
総に是れ我が巳身(こしん)の弥陀
弥陀何の法をか説く
と、打ち返し打ち返し常に斯くの如く妄想すべし。(妄想は観念のこと)
以上の内観をくり返し努力して、なお且つ諸病が治らぬならば、「我が頭(こうべ)を切り将(も)ち去れ」
と述べています。
岡田式坐法という新しい裘(かわごろも)に、古酒を容れての静坐の試みは、毎月(十二月より三月は除く)第三水曜日に、午後一時より四時の間、JR東舞鶴駅前、「舞鶴トラベル2F」で開催しております。
御来坐をお待ちします。 |