朝日新聞(うたの舞台)  卯月八日の法要

松尾寺 石垣りん
東京・渋谷の駅ビル構内に
改札口と商店街を結ぶ殺風景な通路がある。
混み合うときは片側一車線のトンネルのように
人の群れは二つの流れとなって行き違う。
いつであったか、あの波立つ顔の中に 詩人の吉岡実さんを見かけた。
声をかける間もなかった 向こうが私を見かけたとも思えなかった。
ほどなく吉岡さんの訃報をきく。
以来おなじ通路で
ことに吉岡さんの歩いてきた方向をたどるとき 私はみょうな気持になる。

京都・舞鶴市にある松尾寺では
五月八日の法要に長い石段をのぼってゆくと
すれ違う群れの中に故人によく似た顔があるという
山陰線の車中で耳にした話。
そのとき同行した若い女性と
いつか噂の寺に参りましょう、と約束した。
あれから何年たったろう
久しぶりで会った友は寺の話を覚えていて
こんど行ってみませんか、という。
そうね
あなたが石段を上ってくるとき
私が反対側から下りて来たりして、というと
まだまだ若い彼女はキャッと小さく叫んだ。

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 上記は平成六年五月七日付、 東京版夕刊に載った石垣りん氏 の詩であります。
 詩の中にもある五月八日に行 なわれる松尾寺の「卯月八日」 の法要は、この土地での有名な行事になっています。いうまでもなく卯月は四月でありますが、新暦になって五月八日に定 着しました。旧暦でいう、今年 の「卯月八日」は、新暦の五月 十二日に相当します。そして、二十四節気の中、穀物を植える時期に当る、「芒種」は通例六 月六日頃となっています。
 したがって卯月八日の寺参り とは、祖霊の供養を兼ねて、当年の豊作を祈願する祭礼であったものと思われます。その切なる願いと祈りは、寺での亡き人との出逢いの可能性を裏付けたのであります。石垣さんの詩にもある通 り、松尾寺参りは故人 との出逢いを約束すると云い伝えられてきました。
 また寺がその中腹に位置する青葉山は、東方、若狭の地から望めば「若狭富士」と呼ばれ、 西方、丹後の地からは「馬耳山」と名付ける東西に並び立つ峰を有する霊山として山自体を神体とする信仰を育くみ、それが卯月八日の祭礼へと繋ったのであ ります。
 同時にまた、卯月八日は、釈迦生誕の日であると共に本来修験(山伏)の峰入り(山へ入って修行を始める)の日であることが、この祭礼を生んだ大きな 理由であります。
 ともあれ、長い歴史の中に息 づいてきた参詣者の思いは、つい先日も、位 牌堂に参ってきた人が 「おばあさん、また来たで」 と云いながら、位 牌に合掌される素朴な姿に、思わず、祖霊 との深いつながりを教えられました。奥さんを亡くして、翌年の春彼岸に、「家内に逢えると聞いたので」と参って来た年来の畏友である医師の言葉にも、 思わず胸迫るものがありまし た。
 昭和二十八年、舞鶴市々制十周年を記念して作られた、吉井 勇作詞、大村能章作曲の「舞鶴風流音頭」の第八節は
 卯月八日の松尾寺まゐり  心の札所をここぞと定め  青葉山道仲よく登る  恋の遍路の二人づれ二人づれ
  となっております。
 因みに当日奉納される「仏舞」 (ほとけまい)は、中世より伝承されたもので、国指定の重要 無形民俗文化財になっていて、 昭和五十八年、今日の皇太子、 浩宮親王殿下にも御覧いただきました。



浩宮様に「仏舞」の説明 (「フォーカス」昭和58 年5 月20 日号)



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