陸の叫び・海の唸り(東日本大震災)

 かつて、四国遍路の途次、室戸 市では処々方々に「昭和九年室戸台風海嘯襲来地点」の石碑を見かけました。
  同年九月二十一日、四国や近畿地区を襲った風速60メートル余 (時速200H余)の台風は三千三十 六名の犠牲者を出しました。当時 堺に住いして、幼稚園が休みとなり、家に居た私は、屋根瓦が木の葉のように飛び散るさまを恐怖におののきながらみつめていた思い出があります。
  時に、室戸の人が「海嘯(カイショウ)」と表現していることに興味を覚えま す。元来、地球規模のことは、何千萬年単位で大陸が分裂したり併呑されたりしています。神話に「国引き」の話が出てくる所以でもありましょう。これを大陸の叫びと表現するならば、それにつけて、起こる大海の変化を海の唸 りと稱してよいかも知れませ ん。
  何れにしても、人智を遙かに超えた巨大なエネルギーが差配 する海波の襲来を、当時の室戸では、海のうそぶき、海嘯とたとえたのでありますが、むしろ海の唸り、否、海の(阿鼻)叫喚と稱するのが妥当かも知れません。3・11 の大震災でも、狂 奔する海の怒声はたとえるすべもない激しいものでありました。
  更にそれにもまして、二十世紀の申し子たる原子炉がその枷(かせ)を外されるや、果 ても知らぬ猛威を揮っていることに戦慄を覚えます。ところで、我が徒歩巡礼(アリの)会のお三方から、時を同じ くしてお便りをいただきました。
  (一)A氏(東芝、元技師長)
  氏は今年一月六日付けで、原子力安全委員会に対して、大要次の提言をされました。
 福島や柏崎の原子力発電所用 の、千百メガワット機の技術指導のリーダーとして米国へ出かけたこともある氏にとって、原子力タービンの軸にはめられた円盤の亀裂が最大の心痛の種であった。その後の十数年間に逐次、はめ込み式 から一体構造に変換できたが、「今なお原電近くで地震でも起ると、あのタービンのあそこは大丈夫 か、と気懸りになる」と述べ、その他、膨大な数の部品や機器で構成されているが、経験したことのない事象に対する人間の予知能力 は意外に弱く、深刻な事態を招きかねないトラブルを幾つか経験し た。
 その上、テロ、戦争では恰好の攻撃対象となる原電は、やはり撤退すべきである。
 として、脱原発の立場を力説されているのです。
 その後、二ケ月余にして氏の憂慮は現実のものとなりました。
 そこで氏は、自ら業務にたずさわっていた横浜市鶴見区の東芝工場では、毎朝七時半から、明治神宮の祭神を分祀する末広神社で、真摯に安全祈願を捧げてきたこと、また渦中の3号機が東芝の手で造られたことを思い、神宮本社に原発守護の祈りを、元職場の職員ともども捧げたい由を、宮司に申し出られ、三月三十日神社側の手篤いお迎えの下、参拝せられたのでした。
 そして、「科学技術を駆使し、製品の安全に全身全霊をこめて対処していても、想定外の状況が発生することがあり、人間の限界を感じて神仏に祈らずにおられなかった」との所感を述べておられます。
  (二) B 氏 (福島第二原電 元所長)
 氏は大峰山での修行を機縁にアリの会に入会、徒歩巡礼をつづけておられますが、スペインの有名なサンチャゴ巡礼も回を重ね、その服装も白装束の巡礼姿そのままに、私がその左右に書いた「那一 歩、那一息」の輪袈裟をかけて歩まれるため、当地ではアイドル扱 いで、諸所のカミーノ(宿泊所)には、氏の写 真が掲げられている由です。以下は四月二十一日の便りであります。
 震災については矢も盾もたまらず、勿来の関より宮城県境に至る道のり百六十粁の半ば八十粁を、 十六日より十九日まで歩いて慰霊 の旅をした、として 「3・11 のフクシマは、激浪天に星を呑み、地に濁流が襲い、放射能が吹き荒れる難事下にある。…役の行者と亡き母は『神々の激怒と遺霊の無念さを鎮めよ。山伏の本分を果 たすために行け、そしてひたすら祈れ』と私に命じている。」
 と述べておられます。そして、 山つ神、海つ神の最後通告の傷跡は残酷で、「3・11 フクシマ」は 不条理と暗雲の中にある、として五月中旬には残余の八十H慰霊の旅をつづけられました。
  (三)C氏(日本女子医大名誉 教授 群馬県立癌センター元所長)
  アリの会に参加して、黙々と歩む飾り気のないお人柄の氏が癌治療の権威で、海外でもその名を知られているとはつゆ知りませんでした。目下、医療には一切手を染めず、毎月第三水曜日の当地の「靜坐の会」には、東京からわざわざ出席下さり、その都度貴重なお話をたまわっています。
  下記は、五年連続五回目のサンチャゴ巡礼に出かけて、五月十 一日にピレネー山脈のフランス西側の国境にあるサンポール峠を発ち、五月二十一日、ログローニョ に着かれた時の便りであります。
  「今回は、東北大震災、津波犠牲者供養の巡礼と位置づけ、 昨夏九十二才で亡くなった母が晩年大切にしていた尺余の釈迦如来木像を持参し、宿に着くと心経を唱えています。道で一緒になる他国の人達は、災害に哀悼の意を表わしてくれます。時に野の草花で小さな花束を作ってくれます」
  と。八百粁の道のりを終えられるのは、七月初旬の予定でありま す。
 これらお三方の便りに接して、 歩むのみならず、真摯な祈りを忘れぬ 敬虔なお姿に深い感銘を覚え ました。改めて震災犠牲者の諸霊 に、哀悼の念を捧げます。




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